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リスタートの流儀
#01
僕が社長を辞めた
ホントの理由

text :satoshi miyashita

 

今回のケンチクウンチクのゲストは初のオンライントーク! お相手は今年3月にUDSの社長を退任されたばかりの中川敬文さん。UDSには21年前に入社され、以来、コーポラティブハウスのコーディネイトにはじまり、まちづくり、コワーキング、ホテルなど、手掛けてきた事業はまさに多岐にわたります。UDSを離れた現在は、宮崎県にある都農町に拠点を移し、新たな試みに挑戦中。お話しは前職時代のことから、コロナ禍におけるまちづくりの今後など、前後編2回に分けてお届けします!

@都農町(宮崎県) ⇄ 関内(神奈川県)

 

強みを伸ばせ

西田 そもそもUDSとはどんな出合いだったんですか?

中川 僕は前職が地域のデベロッパーにいたのですが、投資詐欺をはじめアクシデントが重なり経営破綻をしてしまい、「次の会社では、やっぱりマネジメントをしっかりやりたい」という気持ちがありました。でも、なぜか人材会社から紹介されたのが、都市デザインシステム(2012年、UDSに改称)で……。

西田 経営をやりたかったのに……。

中川 ええ。僕の実績は商業施設が中心で、大学は建築ではない社会学部、当時の都市デザインシステムは住宅と建築のベンチャー企業でしたから、「全然、接点ないですよね」と言って、役に立てないと思い一度はお断りしたんです。でも、「失業して暇なのだから、とりあえず面接だけでも行ってみて」となって……。そんな感じで、社長の梶原(文生)さんとはとくに素敵な出会いとかではなくて、ただ紹介されて行ったっていう話でして(笑)。

西田 はい(笑)。

中川 梶原さんには「入社しても、いきなり経営の仕事はないし社員の誰も認めないので、コーポラティブハウスできちんと結果を出してから」と言われていました。入社したのが1999年で、僕は31(歳)で、梶原さんが33(歳)の頃ですね。会社は設立7年目、社員も15人ぐらいで、まだ事業としてはコーポラティブハウスだけをやっていた時代です。

西田 30代になったばかりだったんですね。

中川 はい。入社して数年は下北沢、上北沢、桜新町と立て続けにコーポラティブハウスのコーディネイターを担当して、その後、人事の経験なんて全然ないのに、(梶原さんに)「中川君、やればいいんじゃない」ってすすめられ、「はい、僕ならコーポラティブハウスのこと、社内でいちばん語れますからね」といったノリでやらせてもらってましたね。結果的に累計で何千人の人事採用をやらせてもらい、今の僕にとっての財産になっています。

西田 ちょうど「都市デザインシステム」が、多分野に事業を広げていった時期ですよね。

中川 そうですね。ただ、僕は人事と言ってもどちらかというと営業的な役割だったと思います。面談では、せっかくうちの会社のことをいいと思って来てくれたのだから、もっといいって思われるように、すこしモチベーションを上げるような情報を提供したり。

西田 会社のよさを伝えるわけですね。

中川 ウソはつかないけれど、ちょっと盛ったり。そのやり方はいまだに変わらないかもです。

西田 (笑)

中川 社長の梶原さんは建築や企画関連が得意だったからそっちを中心にやり、僕はマネジメントやPRトークがメインで、それぞれ得意分野をやっていました。

西田 担当が分かれていたんですね。

中川 ふたりともピーター・ドラッカーのことが大好きで、彼の著書にも「『強みを伸ばせ』と書いてあるじゃん」って、よく共感して語りあっていましたね。

西田 なるほど。

中川 結局、UDSが企画・設計・運営の三つを「強み」にできたのは、言い換えれば梶原さん、僕、デザイナーの3人がそれぞれチームで長所を生かせていたからなんです。

横浜・関内のオフィスから中川さんとリモート対談中

 

お互いをリスクペクトする

中川 「コーポラティブハウスって、結局、運営なんだよね」という話もよく梶原さんとはしていました。なぜなら、コーポラティブハウスのコーディネイトって僕でもできたから。

西田 というのは?

中川 僕は住宅の専門家でも、建築の専門家でも、ましてや住宅ローンの専門家でもないのに、なぜ入居者が満足してくれていたのか。それは「今の設計で納得していますか?」「建築家の人に言いにくいなら、代わりに言いましょうか?」みたいな連絡を毎日のようにしていたからです。これって通常の設計やデベロッパーがやるマンション分譲とかに比べれば、死ぬほど手間が掛かります。でも、そういうコミュニケーションを重ねたことで、うまくやってこれたのだと思うんですね。

西田 売って終わりとか、貸して終わりじゃなくて。

中川 はい。そこから得られる情報って、すごく価値があって、次に企画や設計をする際にフィードバックしながら、繰り返し、繰り返しブラッシュアップしていくわけです。そして、指摘されたことは契約書とか確認書に反映し、設計の最初の初期提案に織り込む。そうすると自分たちでもどんどんレベルが上がっていくのが実感できます。

西田 いわゆるビルマネジメントやマンションの運営管理もそうですが、一般的に下に見られがちなところがある中で、じつはそこにはどれだけ付加価値があるかってことを、UDSは実際にやって見せたのが、すごいなあと思います。

中川 2002年、UDSが「CLASKA」というホテル事業をはじめた時も、梶原さんは最初から運営込みでやるつもりでした。

東京・目黒にある Hotel CLASKAは、2020年12月20日をもって閉館の予定

西田 当時は、業界でもかなり先駆的でしたよね。

中川 会社としてもホテル事業は初めてでしたけど、なぜ、できたのかというと、コーポラティブハウスをやっていたからです。

西田 すでにコミュニティーを運営していたから?

中川 はい。つくった建物を回していくっていうのはもうやっていたので、全く違和感がありませんでした。

西田 その頃から、(UDSは)ただつくるだけでも、ただ運営するだけでもない唯一無二の存在になっていった感があります。

中川 当時は「面倒くさくて大変でしょう」ってよく言われたけど、僕のマインドでは、建築や不動産よりも、運営をやるほうが自然でしたね。

西田 なるほど、そうだったんですね。

中川 飲食店とかホテルの組織って、大体、外資系のホテルがベースにつくられています。要は軍隊の組織と同じだから、社長が雲の上の人で、「社長御前会議」とか「お上が……」みたいな。現場で働く人は、めったに社長を見ないというのは、よく聞く話です。
 でもUDSでは、20年近く、ずっと年2回から4回、個別面談だ、評価だとか言って面接をよくやっていたので、社員と社長との距離は近かったのではないかと思います。規模が大きくなれば当然、限界はあるけれど、企画・設計・運営担当の社員と全員同じ距離で接することで、上下がないんだよっていうメッセージにしたいという思いでやってました。

西田 どっちかが上っていうのがなくて、完全にフラットな会社だと。

中川 そうなんです。設計部門のデスクの横にシェフやホテルマンがいたりもするので、「このフロントの高さ、大丈夫ですか?」、「厨房のキッチンの高さ、これでいいんですか?」って、お互い普通に聞くことができます。じつは企画者や設計者も、運営する側のアイデアがあったほうが、デザインにリアリティーが生まれます。カッコいいデザインだけだったら設計事務所で十分だけど、やっぱり儲かる施設をつくりたいとか、お客さんに使いやすいと言ってもらいたいっていうのも重要じゃないですか。
 一方で運営する側も、今までは感覚値でクレームを言っていたのが、きちんと計測をはじめるんです。「ホテルの支配人を10年やってきたけど、便座からドアまでの距離、測ったことなかったです」とこぼすホテルマンもいました。設計側からすれば、それくらい知っているものだと思って聞いていきますからね。
 つまり立場の違う人たちをリスペクトし合えるように、お互いをつなげるっていうのは、新しいものをつくったりする時には必要じゃないかと。

西田 確かにそうですね。

中川 でも彼らもだんだん馴染んでくると企画・設計・運営、みんなで調和をはじめるんですよね。もちろん最初の状態に比べればいいけれど、僕はその先に対しては「迎合はやめてね!」って、設計者にはお願いしてました。

西田 そうか、「聞いとけばいいだろう」みたいな雰囲気になっていく?

中川 そう。「フロントの人がこう言っていたんだから」って。でも、「多少使いづらかろうが、そのほうが客単価は上がるんだっていうロジックをつくろうよ!」みたいなね。矛盾するようだけど、「やっぱり設計者はクリエイターたるべきだ」と思ってるので、もっとカッコよく、尖って自分がいいと思った建築設計をちゃんと全面に出すべきだし、「運営の人と喧嘩してでも説得するぐらいの気概でやんなくてどうする!」って。

西田 やはり運営っていうのは過去の実績だから、そこに設計者がどう新たなバリューを与えるかっていうのが大事ですね。

中川 そうなんです。迎合した瞬間に角の取れた、普通の建物になるという話は今でもよくしています。でも、考えてみたら僕、全員に文句を言ってたなあ(笑)。結果的に全員に喧嘩を売ってたような……。

西田 そして去るっていう(笑)。

中川 そう、散らかして(都農町に)帰るみたいな。 


 
いちばんの教育とは?

中川 UDSにいた頃、「おもてなしサミット」っていう「異業種おもてなし格闘技」のような2分間の心に刺さるエピソード対決を社内で3回開催したことがあります。ホテルマンだけでなく、設計者も企画者も一緒に参加して、そこで設計者が優勝したこともありました。

西田 へえ、面白そう。

中川 いわゆる「おもてなし」って、やっぱりホテルマンがいちばん優れているような印象がありますよね。でも必ずしもそうじゃないと僕は思っていて、このイベントを企画したのはそれを証明したかったからです。結果的に、毎回、ホテルマン以外の食堂の調理師や設計者のエピソードにも心打たれるんです。僕から言わせれば、ホテルマンよりも、飲食店やコワーキングスペースの運営や設計、企画に関わる人たちのほうが接客時間が長いのだからネタは多くて当然だと思うんです。

「おもてなしサミット」を開催した時の模様

 最初はホテルマンも、「いや、設計はプレゼンがうまいからね」みたいに斜に構えて、自分の力不足を認めたがらなかったけど、結局、設計者だけでなく食堂の調理師にも負けたりして、「やっぱり、自分たちが一番、井の中の蛙だったんじゃないか」「これまで表面的な接客しかしてこなかったんじゃないか」って気づきはじめるわけです。設計者のプレゼンを聞きながら、「そこまで真剣に自分をさらけ出し、施主と戦ってきたのか」と。そうしたら、ホテルマンの接客の仕方にも少しずつ変化があらわれてきたんですよね。別にホテルマンの接客そのものが悪いというわけでは全然なくて、異業種から新しい接客のやり方やスタンスを習得して強みにしてもらいたかったんです。それがUDSでホテルをやってる強みになるはずだから。

西田 めっちゃいい話ですね。

中川 僕はホテルのフロントもやったこともないくせに『おもてなしデザイン・パターン』(翔泳社刊)っていう本を出版したり、じつはすごい生意気なやつなんです(笑)。そんな僕が、ホテルの支配人や飲食の店長と話すと、彼らの9割は「スタッフができない」とか「あの子はまだ育ってない」とかって言い出します。
 それに対して僕は「じゃあ、あなたは日本のホテリエランキング何位なんですか?」「支配人であるあなたは、ホテルマンとしては、この1年でどれだけ成長したんですか?」「あなたがホールを1時間回れば、ワインの売り上げもきっと倍になるんでしょうね」みたいなことを言うわけです。だって結局、自分自身がプレーヤーとしてのスキルアップをしてなければ若いメンバーはついていかないと思うので。

西田 なるほど。

『おもてなしデザイン・パターン〜インバウンド時代を生き抜くための「創造的おもてなし」のための28の心得』(翔泳社刊)

中川 トップの人が日本一のホテルマンだったら「教えるモード」でもいいと思いますけど、日本ベスト100にも入んない人に教わっても……。

西田 確かに教える側って、教えることに満足しがちというか。

中川 そうです。だから社員全員にヒアリングした時も、「何やりたいの?」っていう質問に、「教育」って答える人には要注意。これは、もちろん僕のひねくれた見方で、中には心の底から教育をしたいと思ってる人もいると思います。でも、中川調べだと結構、「教育したい」っていう人は無意識に地位保全を求めていたりしている傾向がありますね。教えている限り、自分が上にいて、その役割を担保できて、クビにならなくても済むから。

西田 過去の経験がすべてみたいになるから、それ以上、成長していかないってことですね。

中川 もちろん先生や教師という職業であれば、それは教え方について徹底的にファシリテーションとかコーチングを学ぶほうがいい。けど、僕らは教師という職業じゃないから。やはりプレーヤーとしての成果を出す、あるいは人をどう使うか、僕も答えは出なかったけれど、悩みながら、やっていました。
 やっぱり一番の教育とは、自分がすげえ成果を出した時に、それに共感し憧れた人たちが「ちょっと教えてください」ってなることだと思うんですね。

西田 僕はあまり教えるのが得意じゃないので、相談されて答えを求められると、「分かんないから一緒に考えるよ」って言いながら終わるという(笑)。

中川 正解を言っちゃうよりは、いいじゃないですか(笑)。僕は今みたいな話を社員にすると、「いや、中川さんが一番、教え好きですから」って言われます。あと「中川さん、すぐ答え、言っちゃうじゃないですか」とダメ出しされたこともあります。最後は「あなたが一番、ダメじゃねえか」って、突っ込まれて終わります。

西田 でも、そのフラットな関係性、めっちゃいいじゃないですか。

中川 結構、へこむんですけど、確かにそうだなあと思って(笑)。

西田 僕はリアルに分かんないタイプなので……。

 

代表を降りてみて感じたこと

西田 じつは僕、去年、オンデザインの代表を降りたんですよ。

中川 えっ?

西田 あ、でも会社という組織ではまだ「社長」です。

中川 どういうことですか?

西田 「設計事務所」ってすこし特殊で、一般的な会社と違って建築家を中心とした組織構造です。その中では僕は早い段階からトップダウンではない、共同設計というスタイルをとってきました。「僕と誰々さん」っていうフラットベースの組織です。でも、これからは、僕以外でも設計ができるようにしようと、思い切って代表を降りてみたんです。

中川 あー、それは素晴らしい。

西田 ちょうど1年ぐらい経ちましたけど、いまだにうまく言語化はできていなくて……。今回、中川さんが退任されるニュースを拝見して、「これはいろいろ聞かなければ!」と思いまして。

中川 そうだったんですね。

西田 経営者は所有欲求が高い人が多いイメージで、自分がある程度まで育てた会社だったりすると、誰かに受け渡すっていう感覚になりづらいと思うんです。でも、中川さんは、そこを客観視されているなあと思ったんです。

中川 僕の場合は、次の世代にバトンを渡すことを考えたときに、「やっぱり、自分自身が自分をいいと思っているんだ」って分かってしまって、ちょっとへこんだんですよ。

西田 へこんだ?

中川 はい。当然、(社長を)辞めるとなると「後継者を誰にするか?」問題が大きいじゃないですか。でも、会議をしていると、結局、いやらしい話ですけど、僕自身は僕をいちばんいいと思っていることに気付かされるんですよね。

西田 あー、そういうことか。

中川 それが一番、へこみました。結局、「後継者、誰がいい?」っていう話の時に、ポジティブではなくネガティブなところに目が行く自分がいて。その理由はなぜかっていうと、自分を基準にしているからなわけです。「あっ、これって自分のコピペとか、自分のやり方を踏襲してくれる後継者を求めてんじゃないか」と。そう思ったら、鳥肌が立って。

西田 後継者はどうやって決まったんですか?

中川 執行役員全員で取締役を3人選んで、そこから(後継者を)考えようってなりました。そうしたら選ばれた3人が、僕と梶原さんが思っていた人選と同じだったので、辞める1年前に社内にも、「この3人の誰かが後継者です」と伝えて。

西田 そういう流れでしたか。

中川 選ばれた3人は僕とタイプが確実に違うし、誰が次の社長なっても心配がない3人だったから、これですっきり辞められるなって思ったんです。でも、そこからの1年間は自分の中にある「承認欲求」を塞ぎ込ませるのに大変でした。

西田 それは、さっきほどの自分と同じレベルを求めちゃうってことと一緒ですか?

中川 いや、もっとダサい部分。「とは言っても、僕がやってきたことってゼロじゃないはずだよね。いついろいろ聞きに来てくれるのかなぁ」っていう(笑)。

西田 なるほど。ちょっと寂しくなる?

中川 それもありますね。でもそんなこと言ってると、「中川さんって、結局自分を認めてほしいって思っているんじゃないの」って言われちゃうんじゃないかと思い込んで、さらにむかついて(笑)。そういう、すげぇダサい感情に向き合う日々でした。

西田 それって、この1年で、僕もすこし感じていたことです。

中川 危ないですよね、あれ。

西田 設計過程で決めるジャッジを、「僕なしで決めてもいいよ」って言ってはみたけど、本当に聞いてくれないじゃんって。

中川 そう。

西田 僕が代表を降りた理由のひとつに自分自身が感じている「現代性」が、あと10年たったら古くなるんじゃないかという恐れがあって。今はまだ、ビビッと来るけど、もしかして10年後も今と同じことを言っているんじゃないかっていう危惧があったんです。

中川 それはすごくわかります。

西田 それだったら、30代の伸び盛りが「もっとこうしよう」とか、「こういう実験、したほうがよくね?」っていえる環境に会社をして、僕はその中心にいないほうがいいんじゃないか。もちろん、代表を降りて、うまくいかない時もあるけれど、できあがってきたものを見ると、「これは自分だったらできなかったな」って思える面白さがあります。

中川 それは僕らも同じですね。だから梶原さんとは、次の世代にバトンをつないでいかなくてはと、自分が社長になった時から話していました。

西田 やってみて、はじめて知るみたいなことってありますから。

中川 ええ、あります。これが建設土木業やエンジニアリングなど、経験値が何よりも価値になる会社だったらこのタイミングで辞めるって言わなかったかもしれない。でも、UDSという会社は、アイデアとデザインとホスピタリティーを売りにしているから50過ぎのおじさんが「これからのアイデアは……」なんて言っててはいけない、ということは梶原さんとずっと話していました。だから、さっき西田さんが言われた「現代性」っていう言葉は僕にもすごくヒットしますね。
 今の時代、学生たちもどんどん起業しているし、上場する会社の社長も20代がたくさんいます。そんな中でUDSのような会社は30代、40代が引っ張っていくべきだと。

西田 でも、それが分かっていても、なかなか辞める決断ってできないですよね。

中川 そこは安心して任せられると思う次の体制ができたのが大きかったし、僕自身、適当な性格で生まれたのがよかったですね。「取りあえず辞めてみるか」って。あと、辞めた後に相談役とか顧問とか、自分の経験値を生かして個人事務所でコンサルっていうのだけは、絶対にやりたくないって思っていました。

西田 院政みたいな。

中川 それだけは絶対にイヤでしたね。辞めた人が、その後、どう楽しく過ごしているかっていうのは、結構、その会社のブランドにとっても大事なのかなと思うんです。

西田 確かに、それはあるかもしれないです。

中川 そう考えたら、僕にとって、「都農町」っていう選択肢が見つかったのは、ありがたかったなって思います。ネタでも言えるじゃないですか。「うちの社長、辞めた後、都農町へ行っちゃったんですよ」って(笑)。

西田 また、絶妙に知られていないっていうのがいいですよね。「その町はどこですか?」「宮崎ですよ」みたいな。

中川 よく分かんないほうが、謎めいて面白いしね(笑)。きっとそういう面白い前例があると、次に辞める人も「面白く辞めないといけません」みたいな暗黙のルールになっていかないかって、すこし期待しています。

西田 いいですね(笑)。ところで宮崎県にはもともと縁はあったんですか。

中川 全然、ないです。

西田 故郷とかでもないんですか?

中川 東京生まれ、東京育ち、夫婦ともども。典型的なもやしっ子です。

西田 えっ!? それ面白すぎます!(つづく)

トークの話題はいよいよ移住先の「都農町」について。次回も必読です!

 

profile
中川敬文 keibun nakagawa

イツノマ代表。1967年、東京都生まれ、関西学院大学社会学部卒業。1989年ポーラ入社。 1991年オーディーエス入社、93年家族で新潟県上越市に移住、「上越ウイングマーケットセンター」企画開発運営。 1999年都市デザインシステム(現UDS)入社、2011年社長、2020年退任して宮崎県都農町に移住、イツノマ設立。 UDSではキッザニア東京や神保町ブックセンターなどの空間プロデュース、地方自治体のまちづくりプロジェクトを手がけてきた。 著書(共著):『おもてなし・デザイン・パターン』(翔泳社)。
BLOG :http://likework.blog.jp/

profile
西田 司 osamu nishida

オンデザインパートナーズ代表。1976年、神奈川県生まれ。横浜国立大学卒後、スピードスタジオ設立。2002年東京都立大大学院助手(-07年)。2004年オンデザインパートナーズ設立。2006年横浜国立大学大学院(Y-GSA)助手(-09年)。現在、東京理科大学准教授、明治大学特別招聘教授、大阪工業大学客員教授。近著に『オンデザインの実験 -人が集まる場の観察を続けて-』(TOTO出版)がある。