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家から“表現の場”へ!
生まれ変わった
「粟津邸」を訪ねる

photo:kota sugawara text:satoshi miyashita

 

グラフィックデザイナー・粟津潔氏と建築家・原広司氏、日本が誇るふたりの才能が共鳴しあうことで生まれた名作住宅「粟津邸」。竣工から半世紀が経過した昨年、粟津邸は気鋭アーティストらによる“表現の場”として一般公開され、今ふたたび脚光を浴びています。今回のケンチクウンチクは、粟津潔氏のご子息でありアートプロデューサーの粟津ケン氏にご登場いただきます。「家」という枠組みにおさまらない新たな継承のカタチとは? また今、建築家にできること、求められていることは何か? など、粟津邸の空間を見学しながら語り合います。

@粟津邸(川崎市)

エントランスまでのアプローチ

エントランスのアプローチがそのまま内部空間へと続く

 
築51年目の粟津邸の行末

西田 粟津邸の敷地は原広司さんと一緒に探されたのでしょうか?

粟津 いいえ、ここは粟津の友人だった画家の中村正義さんが見つけくれた土地で、傾斜地で地価も安かったのが、ここに決めた理由だったんだと思います。あとは粟津自身、この土地に何か運命的な出合いを感じたんじゃないですか。設計依頼はそのあとですから、たまたま原広司の言う「谷」の概念ともマッチしていたのだと思います。

西田 細長い傾斜地というユニークな敷地ですよね。

北側から見た粟津邸外観

細長いドーム状のトップライト

粟津 そうですね、傾斜地をそのまま使っていて、とくに玄関からの細長いプロポーションはあらためて見るとほとんど京都駅です。木造部分を取り払ったらもっとそれを感じるんだと思います。また原さんの言う「有孔体」という意味でも梅田スカイビルにも通じるし、いろんなところに原広司のデザインした建築の原型があるように思えます。ちなみに「反射性住居」は粟津邸が元祖です。とにかくかなり自由にやってますよ。
 その粟津邸を去年、1972年の竣工当時の姿にほぼ戻しました。ガランとした空間になったアトリエにひとり立った時は感動しましたね。今まで見えなかったこの家の“心”が見えて、原広司の根性というか、凄い才能を発見した瞬間でした。傑作中の傑作だと今あらためて感じているところです。

竣工当時の状態に戻ったアトリエで対談はスタート

西田 ケンさんご自身が、この家に引っ越して来られたのはおいくつでしたか?

粟津 11歳ですね。

西田 そのあと大学の入学時にアメリカへ……。

粟津 高校からです。首都ワシントンの黒人やラテン系移民ばかりのハイスクールに入りました。

西田 そうするとここに暮らしていたのは数年だった?

粟津 そうです。引っ越して5年後くらいにはもうアメリカに行きましたから、小学校5、6年と中1、2、3。つまりこの家には僕自身そんなに長い期間住んでいないんです。トータルで言うと築51年の歴史の中でもせいぜい6、7年。

西田 そうでしたか。

粟津 今から15年前、父(粟津 潔)が亡くなり、それからずっと母はここでひとり暮らしをしていました。母の生活動線はいちばん奥のスペースと居間、あとは下階のフロアにある風呂を使うぐらいで、そのほかのスペースは15、6年休眠状態でした。
 2年前に母がこの家を出ることになったので、原さんのアトリエ・ファイに相談して竣工当時の状態に戻すことにしました。アトリエ部分のフローリングを剥がしたり、あとからつくったドアを外したり……、なんだかんだでそれなりの工事になりました。

フローリングだったアトリエの床をタイルに

ホールから階下へ降りると、アトリエの空間が広がる

 工事が終わると名作住宅の継承事業を手掛ける住宅遺産トラストさんの主催で、とりあえず見学会を開催することにしました。これまで粟津邸はいわゆる「住宅」でしたので、身内や友人しか中に入ることができなかったわけで、「この機会に見てもらおう」となったわけです。
 見学会初日は玄関を開けたら初詣状態で(笑)。まさに「ピラミッドの蓋が開いた!」みたいな感じでしたね。近所の人たちにも「外観しか知らなかったけど、中がこんなに面白い空間だったんだ」と驚かれました。
 そういうリアクションを聞いていて僕が思ったのは、これは粟津潔本人も生前言っていたことですが、結局、どんなに立派な建物もそこで何が起こっているかが重要なんだと。もちろん、この家が建築的に価値があることは理解していますが、それは言い換えれば骨董品の器をエキスパートやファンが吟味しているだけ。そこにちゃんと料理をのせてみんなで分かち合ってこそはじめてその器の良さも分かるんじゃないか。

西田 なるほど、そういう考えがベースにあったんですね。

建物内部をガイドしてくれた粟津ケン氏(左)

 

【粟津邸プラン 】

『住宅遺産トラスト』より引用

 
美術展をしようと考えた理由

粟津 生活とアートに隔たりのなかった粟津の住んだ家です。なので今後はこの家を地域に対してもっと開かれた「芸術実践の現場」にしていければと考えています。さまざまな分野の人たちに参加してもらい、展示や上映もできて音楽もやっていきたい。粟津の感性と個性でこの家は長年ドライヴしてきましたが、僕もその過去を知って、未来に繋げていきたいです。

西田 見学会をしたことが、結果的に次へと繋がったわけですね。

2階のキッチンだったスペースの壁面には、粟津潔氏のタイル作品が飾られている

粟津 そうですね。最初はもちろん「誰かこの家、買ってくれないかなぁ」っていうノリもあって、(見学会を)やったんですけど、実際に売るってなると「いくらで?」ってなりますから。さすがにそこまでは細かくは決めてなかったので、それなら「とりあえず見てもらいましょう」と。
 たった数日間の公開でしたがすぐに予約が殺到して、20歳の学生から70代の高齢者まで数百名が来られました。正直、こんなに多くの人から関心が集まるとは思ってもいませんでしたね。

西田 凄い熱量ですよね。その状況を見て「ここなら美術展、やれそうかな」と?

粟津 そうです。僕は数年前まで東京・三軒茶屋のスペースを使って美術展やコンサートを企画運営する仕事をしていたので、そこをそのまま持ってくればいいんだと思ったわけです。
 それに生々しい話ですが、この粟津邸を維持していくには雨漏りの修繕だって見積もりを取ったらたいへんな額になります。例えば国の文化財として指定され、きっちり助成してもらうなどしなければ今後の維持は難しいと考えていました。これは日本の文化をどうしていくかという問題でもあるわけですけど。

西田 そうですよね。

粟津 建築系の人はみなさん真面目で、ここに来るとだいたい2時間ぐらいはいます(笑)。先日も若い人に「まだいるの? もう外は暗いから帰ったほういいんじゃない」って言っても何も喋らずだまって天井を見上げているんです。それで僕は「この家の何がそんなにいいの?」って聞いたら「いや凄まじいです!」と(笑)。「凄まじいの? この家が」みたいなことを言って、そこから粟津邸ができた当時のことを僕は彼に話たんですけど。

トップライトから自然光が降り注ぐ1階のアトリエ

西田 いいエピソードですね。

粟津 建築が専門の人って、「ここは反射性住居の最初の試みで、この目地がどうで、階段の幅が狭いのはどうで……」みたいなそういう話ばかりしてくるので、僕としてはどうしても「ああそうですか、だからなんなの?」ってなっちゃうわけです(笑)。建築的視点は重要だけど、そもそも、なぜこんな家が建ったのかは誰も知りません。粟津潔と原広司の出会いについてとか、この家が素晴らしいとしたらそれはどうしてなのか、そこで粟津潔は何をやっていたのか、当時の日本の芸術文化の姿は……とか、そういうことが大事なんです。
 例えば、ニューヨークのマディソンスクエアガーデン。あそこはバスケのニューヨーク・ニックスの本拠地でもあるし、かつてはモハメド・アリが世紀の一戦をしたり、伝説のライブが開催されたりした場所です。ちなみに僕はステーヴィー・ワンダーとプリンスを観ました。会場はただの円形ですけど、マディソンスクエアガーデンと聞くとみんな「オーッ」てなります。それはつまり建物自体がどうこうと言うより、そこで何が起こったのかが重要ということですよね。

マジソンスクエアガーデン外観(Wikipediaより/©Ajay Suresh from New York, NY, USA – Madison Square Garden )

マジソンスクエアガーデン内(Wikipediaより/©Peetlesnumber1)

 それからハーレムにあるアポロ・シアター。あの劇場は20世紀で最も重要な音楽のメッカで、僕が世界で感激した場所のひとつですが、誰がデザインしたのかは多くの人にとって無関係です。もちろん建築家の視点がその業界やアカデミズムにとって重要なのは理解しますが、それだけをやっていても建築は分からないと思うんです。

アポロシアター外観(Wikipediaより/©Ajay Suresh from New York, NY, USA – Harlem – Apollo Theater, CC)

 原広司がじつはビートニックのカルチャーや小説家のマーク・トウェインが好きでそういう本ををたくさん読んでいたとか、ロック以外にもいろんなジャンルの音楽が好きだとか……。また近現代の思想やデザインとは一見かけ離れたところで、世界中の集落を訪れ研究をし、そこから何か大事なことを吸収しようとしたとか。そう、『集落の教え100』(彰国社刊)という本は傑作です。読むと「これはまさに粟津邸じゃねーか!」といった箇所がいくつもあります。そういう人がこういうデザインの建物をつくったわけです。
 映画だって撮影のノウハウはもちろん大事だけど、ほかの分野からいろんなことを学び、深く考えるからこそ黒沢明やフェリーニのような監督が生まれるわけじゃないですか。建築だけにしか興味のない人がつくるデザインは果たしてどうなのか。僕は建築の専門家ではないからはっきり言えるのですが、よくあるいわゆる血の気のないミニマルなデザインってあまり関心がないんです。

2階ホール付近で話し合う粟津氏と西田氏。階段横の通路奥には居間と寝室&クローゼットルームがある

 

やるべきことを普通にやる

西田 聞いていると、この建物で今後どんなことが起こるのか楽しみになってきました。

粟津 でも、そうは言ってもあまり気張ってやるつもりはなくて、普通にやっていこうと思います。そうすれば自然に「私もやりたい!」って言う人が出てきますから。

西田 だんだんと仲間が集まってくるんですね。

粟津 そうです。写真家やデザイナーや美術家や音楽家など、かつて60年代にはジャンルを超えたさまざまな人たちが出会い、交差する場所が多くありました。ここも近隣の住民たちを巻き込んだ「出会いの場」になってくれたらいいなと思います。展示作品については、できるだけこの時代に訴える力を持ったものをプレゼンしていこうと考えています。 

今後予定している展示作品について話す粟津氏

『粟津潔・作品集2』の中面

西田 今後も定期的に美術展やイベントを続ける予定ですか?

粟津 正直、いつまでこれを続けられるかは分からないけど、とにかく今やれることをやる、それだけです。誰かがここを買うと言ったら売っちゃうかもしれないし、お金持ちの親戚とかいないですか(笑)? 

西田 そういう自然体なスタンスもいいですよね。ケンさんのご家族はここを手放すこと自体は了承済みなんでしょうか?

粟津 そうですね。物に固執しはじめるとキリがないですから。「手放すこと」がいかに潔いかということは、粟津潔の多くの作品を金沢21世紀美術館に寄贈した際に僕が感じたことです。今後、(寄贈作品が)有効利用されるかどうかはわからないですけど、芸術が我々にとってどういう意味や価値をもつのか、彼らにはそれをマジで考えて欲しいですね。
 もうずいぶん前の話ですが、国立近代美術館のフィルムセンターにも粟津のポスター作品を数十枚寄贈しました。でも、いまだに公開されていません。今ではほとんど残っていない希少な傑作ばかりです。僕からすればいったい何のために寄贈したんだろうっていう思いが正直あります……。

粟津邸の一室には、希少な作品が今も数多くの残されている

西田 せっかく寄贈された作品が一般公開されないのは残念です。

粟津 たぶん彼らとしては単にコレクションとして扱いたいんでしょう。所蔵しているだけでは意味がないのに。こういうケース、じつは日本の美術館や博物館には多いと思います。

西田 例えば、ケンさんがそうしたコレクションを手放す感覚と、この家をそのうち手放すであろうという感覚は似ているものですか?

粟津 うーん、どうだろう。それは違うかも知れませんね。家は(コレクションを寄贈する感覚と違って)タダでは手放すわけにいかないですし。

2階ホールを挟んで両側に書斎と子供部屋(写真)が配置されている

西田 それは確かにそうですね。積み上げてきた時間も作品と家では違うように感じます。

粟津 ただ、だとすると僕自身、いつまでこの家を維持し続けるのかって話になりますね。

西田 あぁ、確かに。

粟津 べつにほかの人がここを借りて運営するとかでもいいんですけど、それにはいわゆるマネジャーみたいな人がいないと駄目でしょうね。契約の規約とかをつくって、運営の管理をしてもらわないとやっぱりうまくいかないと思います。いずれにしても「出会い」や「発見」や「摩擦」の場をつくることができるかどうか、それが僕の役目ですから。

西田 今の話を聞いていると、建物自体にも人格というか性格のようなものがあるのかなって思います。粟津邸を継承するにしても、こういう使い方をしたいって思う人と建物のキャラクターとのマッチングが大事なのかもしれませんね。

子供部屋と対となる場所に配置された書斎

書斎の小窓からアトリエを見る

 

外部環境に影響される家

粟津 建築業界を見ていて思うのはやっぱり幹がぶっといでことですね、ジャンルとして。日本の美術や音楽とかってマイナーなことをやっている人も多くて、なかなか全体にお金が回らないけど、建築は回ってますからね。ただその一方で建設現場を見ると最近のコンビニと同じようにじつは外国人労働者がいないと仕事が進まないのが現実です。日本の少子高齢化は深刻ですよ。某建築雑誌にはそんな話しは一文字も出てこないけど(笑)。
 先日、粟津邸の前で古い住宅の解体工事がありましたが、そこで働いていたのも全員がタンザニア、スリランカ、中国などから来た外国人です。僕は彼らにも粟津邸を見てもらいました。

西田 室内に招いたんですね。

粟津 そうです。その時に僕は「粟津邸には誰に対しても訴える特別なアウラがあるんだ」と感じたんです。それなら、その特性を活かして世界のあらゆる文化や過去を背負った人々が芸術を通して交差する、そんな国際的なマインドセットでやられたらと。これは僕が昔から言い続けていることですが、今後、日本を変えていく力になるのは、自分たちとまったく別のアイデンティを持った彼らの音楽やアートや文学なんだと思うんです。

2階ホールから居間を見る。その奥には寝室&クローゼットルームがある

寝室&クローゼットルーム

西田 それをこの場所から仕掛けていきたいと。

粟津 そうですね。それができる可能性は粟津邸にはあります。この場所に来て「凄まじいですね」っていう若者は今までに見たことのない建築を体験したってことだし、それはやっぱり原広司パワーの賜物じゃないですか。もしそこに粟津潔が関与しているとしたら、設計をほとんど彼に任せた懐の深さですね。人に委ねる力が粟津にはあった。

西田 お父様もここで制作やイベントをされてたんですよね?

粟津 いろんなことをやっていましたよ。ちなみに僕には「お父様」という感覚はないんですけどね(笑)。人は環境に影響されるから粟津潔の72年以降の作品は、やっぱり彼がこの家に住んでいたことで生まれた作品なんだと思います。その代表作がサンパウロ・ビエンナーレに出した『グラフィズム3部作』かな。

『グラフィズム3部作』(粟津 潔)1977

 さっきも言いましたが、ここはアートと日々の暮らしに隔たりのなかった粟津潔の生活の場であり、制作の場であり、もちろん展示の場でもありました。先日、秩父前衛派の笹久保伸と青木大輔のライヴイベントを、ここ(アトリエ)でやりましたが感動しました。粟津潔が亡くなって長い時間が過ぎ、空間にまったくべつの魂が入った瞬間でした。そして、この家の未来に大きな可能性を感じました。

西田 前回の『吉國元展 根拠地〜粟津邸ではじまる』を拝見したとき、自然光を採り入れながら部屋の雰囲気に合わて作品展示されていたのが印象的でした。

粟津 粟津邸は窓から入る自然光で日中であれば照明が必要がないんです。だから日によって展示作品の見え方も明るかったり暗かったり、場所によって直接光が当たるところもあったり影になっていたりと、いろいろ変わります。つまり外部の影響で家の中の環境が変化する建物です。
 最近の住宅はどんな建築家が建てようが、みんな外部と室内を人工的にコントロールしますよね。明るい暗いだけじゃなくて、暖かいや寒い、それと湿度も。でも、この家は築年数が経っているということもあって、そういうコントロールがききません。つまり建物のデザインがそのまま室内の環境に反映されるおもしろさがある。美術館は逆にそういった変化を嫌いますね。

2階居間スペース南側の開口

西田 変化しないことを良しとしてますからね。

粟津 だけど果たしてそれって本当にそうかよ、みたいなことです。粟津邸にいると、「見る」「聞く」ということがどういうことなのかを根本的な次元で考えさせられることになります。原広司は「住宅に都市を埋蔵する」と言っていますが粟津邸の内部に入ると、ある種の街というか路地というか広場にいる感覚になります。ドアを開き、中に入ればまた外に出る、という感じです。その日の天気、気配、光と影、風の動きから外の世界を建物が抱きかかえるような。まるで太極拳みたいな家です(笑)。

西田 それは言い得て妙ですね(笑)。

粟津 それと京都駅にもかなり近い。つまり、いわゆる“家”ではないわけです。むしろ公共性の強い空間だと思います。だから「粟津邸」という呼び名もちょっと違うかな。今後は、「AWAZU HOUSE」という名でいきたいですね。“HOUSE”のほうがいろんな意味をもっているし、しっくりきます。

1階アトリエの奥には和紙の壁に囲まれた和室がある

 

今、建築に何ができるか

西田 現在(取材時)開催している企画展のテーマは反戦ですよね。

粟津 はい、粟津の作品に『ANTI-WAR』って書いてあるから、「それ今出さなくて、いつ出すんだ!」ってことでやっています。

『ANTI-WAR』(粟津 潔) 1968

西田 時代の背景とスピード感が凄いですね。

粟津 『ANTI-WAR反戦 天使とダイナマイト』展には、粟津潔の代表作である『海を返せ』をはじめ、自然と神の破壊をテーマにした笹久保伸の写真や版画作品が展示されています。また東松照明の写真や手塚治虫や中村正義の絵画も展示しました。そして同時に笹久保伸の音楽も会場で流しています。こんな凄い場所でこんな凄い展示やってるところはほかにないと思います。しかも今の世界と対峙して、破壊と反戦をテーマにしています。

西田 インパクトが凄いです。

粟津 よく思うのですが、戦争って人を殺すのと同時に建物や都市、文化を破壊するわけだから建築家も自分の考えをしっかりと語るべきだと。もちろん建築家だけではないけれど、彼らは一定以上の影響力を持っているのに、戦争はもちろん政治や社会についてほとんど何のコメントもしないですよね。そういう声が聞こえてこない。美術やデザインの関係者もみんなしてほとんど黙ってますね。きっと自分の意見はあるはずなのに。

西田 たぶん建築側の人たちには自分がそういうことを発言する立場に属してる意識が希薄なんだろうなって、今聞いていて思いました。自分たちにそれほどの影響力があることを自覚してないというか。

粟津 僕はべつに社会派でも何でもないんだけど、あえて戦争の話が出たから言うと、ようするに現代美術とか現代建築とかを語るならば、それは日本の“現代”でもあるし世界の“現代”でもありますよね。とくに権威的な建築家にとっては世界規模のプロジェクトも多い。つまり「どこかの国に、かっこいい図書館や美術館をつくりました」って言っても建築的な視点で見れば面白いのかもしれないけれど、それ以外に何かないのっていう感じがつねにあります。
 粟津潔の言葉に、「犬もさえ都市に関与できるという関係を充足できない限り、どんな立派な建物があっても無用の長物だ」というのがありますが、彼らしいです。今、世界中でやっている開発だらけの街はつまらない。聞こえのいいことばかり言って実態のすべては商売です。つまりは金儲けしかない。そうなるとデザインとかってなんなのか、なにができるのか。それを考えないと目的すら見えなくなりますよね。
 ただ今の日本の社会でそういう意見を言うと煙たがられます。いつからか空気ばかり読んで自分の考えをストレートに言わないことが当たり前になってしまいましたね。

西田 背景としてそれはありますね。

かつてアトリエスペースには壁一面に本棚があったが、今回の工事ですべて取り払ったという

粟津 そう考えると「メタボリズム」は凄いなと思います。粟津潔みたいな人をメンバーに入れたわけですから。ほかのメンバーは建築界の超エリートばかりです。そこに粟津のような異端者というかアジテーター的なメンバーを入れた。今はいくら才能や技をもっていても毛色の違う人をいれない時代です。でも本来“異物”を入れるっていうのは芸術には必要なこと。“毒”がない表現はおもしろくならないと僕は思っています。
 時代は劇的にパラダイムシフトしています。建築もアートも芸大的なアカデミズムや流行りのスタイルだけではもう全然だめです。だから粟津邸でやるとしたらつねに今の時代を見据えたことをやっていきたい。粟津潔の言葉をかりるならば、「異種交配」をやっていきたい。それは僕の愛するブラックミュージックの根底にある大事なエッセンスです。でもそのプロセスは険しく厳しいことでもあるけれど。

西田 そのひとつが『天使とダイナマイト』ですよね?

粟津 そういうことです。このタイトル通り、天使にはダイナマイトがよく似合うという(笑)。今後も自分の持ち味を活かして即興的かつファンキーにやっていきたいです。

玄関付近からはホールを見る。その先の階下にはアトリエがある

DATA

所在: 神奈川県川崎市
竣工: 1972年(昭和47年)
構造: 鉄筋コンクリート造
設計: 原広司
延床面積: 現況 256.4㎡(76.92坪)
111.6㎡(1階) 133.6㎡(2階) 11.2㎡(屋上)
敷地面積: 601.671㎡(180.48坪)
竣工時の用途: 住宅・アトリエ
施工: 遠藤建設
profile
粟津ケン ken awazu

art producer /director
15歳でワシントンの高校に留学後、19歳でニューヨークに渡り、20代後半までアメリカを拠点に活動。2010年よりアートプロデューサーとして三軒茶屋にイベントスペース「KEN」を立ち上げ、アートからパフォーマンスまで幅広いジャンルのイベントの運営を手掛ける。また現在は昨年オープンした「粟津潔邸 AWAZU HOUSE」の管理運営を行う。

profile
西田 司 osamu nishida

1976年、神奈川生まれ。使い手の創造力を対話型手法で引き上げ、様々なビルディングタイプにおいてオープンでフラットな設計を実践する設計事務所オンデザイン代表。東京理科大学准教授、ソトノバパートナー、グッドデザイン賞審査員。主な仕事として、「ヨコハマアパートメント」「THE BAYSとコミュニティボールパーク化構想」「まちのような国際学生寮」など。編著書に「建築を、ひらく」「オンデザインの実験」「楽しい公共空間をつくるレシピ」「タクティカル・アーバニズム」「小商い建築、まちを動かす」。

http://www.ondesign.co.jp/

 

【information】
跡の前(嶺川貴子+川口貴大)
Before a trace 3 @粟津邸
〇会場:粟津潔邸 AWAZU HOUSE 
〇日時:2月24日(土)Open / Start 18時〜、25日(日)Open / Start 13時〜、16時30分〜
〇料金(各回):一般:3,000円、学生:19歳〜22歳:1,500円
ご予約はこちらから:https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLSfFbv79tvyEF1BxqDD_USLh5jAKOcJQLzKWCLfJ2iiKHwTegQ/viewform
※イベント詳細はこちらでもご覧いただけます。
ジョナス・メカス展@粟津潔邸 
「われわれは理想主義者でなければならない – Be idealistic -」 
〇会場:粟津潔邸 AWAZU HOUSE 
 住所:神奈川県川崎市多摩区南生田1-5 -24 アクセス:小田急線 読売ランド前駅より徒歩約15分 / 生田駅よりタクシー約10分 
〇日時:3月1日(金)~3月31日(日) 金・土・日曜のみオープン(計15日間) 11:00~17:00 ※イベント開催時は時間が変更になります 
〇料金:入場料1,000円  ※現金のみ、予約不要 ※イベント開催時は別料金 

〇概要: グラフィックデザイナー・粟津潔の住まいであり仕事場だった「粟津邸」でジョナス・メカス展を開催します。 「なぜこの場所で、この展示を?」と疑問に思われた方もいるかもしれません。しかし粟津邸の周辺には、メカスをめぐる不思議な縁がいくつも渦巻いています。 粟津邸が竣工された1972年、メカスは映画『リトアニアへの旅の追憶』を発表し、その日本版ポスターを手がけたのが粟津潔でした。数年後、粟津邸からアメリカへと発った潔の息子・ケンはニューヨークで『メカスの難民日記』翻訳者の飯村昭子と出会い、現在まで交流を続けています。また『メカスの映画日記』装丁を手がけた編集者・植田実と「粟津邸」設計者の原広司、作品貸し出し元のギャラリー「ときの忘れもの」の間にも、深い交友関係があるといいます。 そして何より、「非力な友人たち」を傷つける相手に徹底的に抗議しながら世界の美しい側面に目を向け続けたジョナス・メカスと、米軍の軍事演習によって漁場を奪われた漁民たちの反対闘争ポスター《海を返せ》でデビューし、常に民衆の側に立たんとした粟津潔の試みからは、遠くない精神性を感じとることができます。 本展では、ジョナス・メカスによる写真、シルクスクリーン作品約15点に加え、粟津潔作品と関連資料を紹介いたします。会期中はイベントも予定しておりますので、この機会にぜひ足をお運びください。 

イベント
Screening [ 定員各25名、事前予約制 ]
ジョナス・メカス作品を16mmフィルムで上映します。 
〇日時:3月16日(土)『リトアニアへの旅の追憶』1972年 87分 
    3月17日(日)『いまだ失われざる楽園、あるいはウーナ3歳の年』1979年 90分 
※各回おひとり2,000円 ※両日17:00開場、18:00上映開始。
※共に字幕なし、シナリオ資料を配布いたします。
※上映中、フィルム替えの時間がございますことを予めご了承ください。
ご予約はこちらから:https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLSdgoPeJUpHgSyDCGuKOCsFMzEMQkTG56oSghk4341VYlnl0LA/viewform
Live!  [ 定員35名、事前予約制 ]
イルマ・オスノがケチュア語で歌う。
故郷とは、記憶とは、そして「出会い」とは何か。旅をする音楽。 
『粟津邸からアヤクーチョの 風が吹く』
〇日時:3月23日(土)14:00スタート(約80分) イルマ・オスノ(歌)+笹久保伸(ギター)
※各回おひとり3,000円 ※ライブ実施中、通常料金でのご入場は受け付けておりません。 ご理解いただけますと幸いです。
ご予約はこちらから: https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLSdYkbc8YkIIz-jntiJki6Wg4PDyW7QZqSob7QMGLbXe9d3x0Q/viewform