One day
#01
「ある晩、パパ・ジョンで」
佐伯 誠
introduction
ヨコハマのまちを 舞台に彷徨う |
あれは、いつだったか、夕方になると東横線でヨコハマの野毛に通っていた頃のこと、いきつけの〈パパ・ジョン〉でサントリーの角の水割りをチビチビやりながら、いつもながらのパパのダジャレにしらけていた。
パパは、東欧のプロレスラーのように暗い殺気を放つマッチョなカラダに、スキンヘッドに白い髭……、野毛の街じゃ知らない奴はモグリと言われても仕方ない。
そのうち、背後でドアが開いて、パパが眉をしかめた。誰だろう、気のいいパパが歓迎しない客というのは? 獣のようなムッとする匂いごと、隣に誰かがすわった。見ないでパパとおしゃべりしていると、呪文をとなえるように、オトコが問わず語りをはじめた。
「いやあ、今日はヒドい目にあった、寿町であいつらが寄ってたかって……」
ペシャンコになった虫けらが、どっこい生きているというふうに手足をのばすしぐさで、隣でたしかにしぶとい生命が1コ、生きのびてフガフガ息を吐いている。それは、ぜったいに祝福すべきことだと思った。
「どうしたんですか?」
小さくて貧しそうな老人が、止まり木に両手をのせて、しがみついてる。問いかけに答えることもしないで、指先でカウンターのピアノを鍵盤を叩くように、タンタンタンと連打すると、パパがそんなことをオレの店でするんじゃないというように、ちっこい目で制した。
そのくせ、パパはこういう連中に冷たくあしらったりなんかしない。ちゃんと水割りのグラス、小皿の塩豆までおいてやったじゃないか。
十五歳でこの世界に入って、この店のことを教えてくれた樋口修吉さんがいってたのがほんとうだとすると、その頃の話をさせるとたいていオイオイ泣き出してしまうらしい。
ナイトクラブで働いてるときに、どういうヘマをしでかしたのか、椅子に縛られて、みんなに殴られるような仕打ちをされてきたって。
隣のオトコが、いきなり、つぶやいた。
「オオエ君も、がんばってる」
三回くりかえしたものだから、さすがに訊かないではいられない。
「オオエ君?」
「オオエケンザブロだよ、オオエケンザブロウ」
場ちがいすぎる名前だ、朝日新聞にしか書かないノーベル賞作家というのは。ということは、このジジイは文学青年がとことん生き延びて、街の底の漂流物になったというレアなケースなんだろうか?
こっちが問いかけるよりも先に、足元にクシャクシャになって転がっているバッグからとりだしたモノを、小さく震える手でさしだした。紙の束をホッチキスで綴じただけの小冊子に、「短文」というタイトルの表紙、ずいぶん手あかで汚れてる。
ジジイの話をかいつまんでみると、どうやら「短文」というジャンルがあるらしくて、その同人誌ということらしい。パラパラめくっていると、ドロの入り込んだ爪の指先がスッと挿しこまれて、そこのページを読めということだろう。
『廊下のセレナーデ』というタイトルで、書かれていたことを思い出そうとするけど……、なにもおぼえていない。ただ、「路でアレ?」と思ってガラス玉を拾い上げて、しばらくそれを手に転がしているような気分になった。ガラクタなんだけど、それから目を逸らせないんだから、それを宝石と呼んだっていいだろう。
いきなりマジになるけど、ドイツとフランスの国境のマジノ線で、小さな三色スミレに目を留めて、そのときに「構造」というものを直観したというレヴィ=ストロースの逸話は、泣きたくなるくらいカッコイイ。あの分厚い『野生の思考』(みすず書房刊)に書かれていたことを、もうほとんどおぼえていないけれど、表紙の三色スミレの細密画と、裏表紙の口をあけて威嚇するビーバーの細密画のことはずっと忘れないだろう。
あの絵でサンドイッチされていたのは、いったいなんだったんだろう?
あいにく詮索してる時間はないから、「街が行きづまりになっているところまで歩いて行って、もうがまんができなくなったニンゲンも同様に、生きているものを死んだものからへだてている断崖を飛びおりる」ことにしよう。
秩序と清潔と能率だけが祝福されるピカピカツルツルの大通りから、できるだけ遠く離れて、イヌのウンコが落ちているようなほんとうの世界へ行かなけりゃ。うらぶれた路地の奥でうごめくオトコやオンナが、どんなにおちぶれて見えようと、そいつに冷たくなんかするもんじゃない。
だって、そいつは天使が身をやつしてるのかもしれないし、ちゃんと目をこらしさえすれば、うっすら天使のすかしが見える。パリのシェークスピア書店の壁に書き付けられていたフレーズは、この街の底で生きていこうという野蛮人が知っておかなけりゃいけないマナーだ。
Be not inhospitable to strangers lest they be angels in disguise.
profile
佐伯 誠 makoto saeki
walker+cyclist+文筆家。音楽、映画、文学、アートの分野に造詣が深く、雑誌、ウエブ、広告など、多様な媒体で執筆を行う。「よそ者として無遠慮にヨコハマをうろつくのは、occupied japanの残り香を嗅ぎたいから。この街には、東京が隠蔽してしまったものが残されているから」
松本祥孝 yoshitaka matsumoto
photographer +横浜関内にてmatsumoto coffee roasters 主宰。料理写真、街歩き写真が得意分野。コーヒー焙煎と白黒暗室の奇妙な関係を探索中。コーヒーの出前屋台や出前授業なども行う。横浜野毛ジャズ喫茶ちぐさで日替りマスター隔週金曜日担当中。