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トイレは、文化だ。
#05
Road from Toilet
トイレからの道。

text & photo & illustration:emiko murakami 

 

トイレから流れていった水はどのような道を辿っていくのでしょう?

 

「用を足したはいいけれど、出てきたものの処理どうしよう」という人類共通の悩みは古来より様々な「流れ道」を生み出してきました。世界最古の下水の道があると言われているモヘンジョダロ遺跡から見つかったのは、ただの溝。日本では屋根からの雨水を受ける雨うけが道の始まりとされています。
現代では下水道という名の専用道が地中を走り浄水処理システムを通り抜けた水が再利用されるまでに発展しました。
いわゆる“くぼみ”としての通り道から、土木と科学技術を駆使した下水道まで。水の通り道の成り立ちについて調べてみました。

 

・・・

 

下水道は「ただの溝」から始まった

世界でもっとも古い下水道が生まれたと言われているのは、今からおよそ4000年も昔。紀元前2000年ごろに古代インドやメソポタミアでつくられたといわれています。

 

 

今のパキスタンの位置にあり、インダス川のまわりに栄えた古代文明の都市モヘンジョ・ダロ。世界で初めて、下水道らしき水の通り道がつくられたと言われています。

日本では古墳時代の雨うけから始まり、その後年月を追うごとに少しずつ進化していきました。

以降、国内の下水道は時の政権の支配者によるまちづくりで工夫を凝らした開発がなされたり海外の技術を取り入れたりと様々な変遷を遂げます。

 

 
 Chapter-1  @大阪
どうせなら、一緒につくってしまう
秀吉がつくった下水システム

 

1583年の大阪(大坂)。秀吉が大阪城を築城しようとしていた頃でした。城のふもとに城下町をつくる際、秀吉は人の通り道も水の通り道も一緒につくろうと考えました。道路や橋とともに、町屋から出る排水を流すための「下水溝」も建設しようと思いついたのです。

 

当時は写真のような天井のふたはなく、溝のまま使われていました。明治時代に、溝の上に道路がよこぎるため石のフタがとりつけられて、現在のような形になりました。(引用:大阪市ホームページ

↑道路と下水道を備えたアイディアは、 都市計画の歴史において画期的なものだったそうです。

大坂の町を東西と南北に走る道で碁盤の目のように構成し、東西道に面した建物の背中同士の間に下水溝が掘られました。

 

太閤下水の図面(引用:大阪市ホームページ

この下水道は太閤秀吉にちなんで「太閤下水」と呼ばれておりますが、水路の位置が町境となり、水路を挟んで町が背中合わせになることから「背割下水」とも呼ばれました。(※一部には背割になっていない箇所もあります)

素材は石造りで頑丈でした。豊臣家の滅亡後、江戸時代に入ってからも使われ続け、整備・拡張を繰り返しながら今日もその一部が使用されています。4世紀以上の歴史をもつ、日本最古の現役の下水道です。

 

 

 Chapter-2   @ 江戸
江戸の超リサイクルシステム
〜世界最大都市の粋な暮らし方〜

 

ところで、私たちは身体の中でいらなくなったものを固体と液体とに分けて出しています。

液体の方は血液が濾過されたものなので、水・塩分・老廃物で成り立っており栄養素がほとんどありません。一方、固体の方は消化器官のカスとして窒素やリンなどの有機物が含まれており、これらは植物の成長を大いに助けるので肥料として使うには絶好の資源でした。

江戸人は、固形カスは肥料として活用していました。

「カス→肥料→畑の植物の成長→収穫→食べる」といったふうに、自然のサイクルを暮らしの中で実践していたのです。

しかも、肥料は有料で売買されるほど貴重でした。

同じ時期に、ヨーロッパの各都市では人工が急増し、道路に汚物が投げ捨てられ町中に悪臭が漂っていました。

江戸の町は当時、世界最高の人口数を誇っていましたが、廃棄物が溢れた町とは異なり大変清潔な景観を誇っていました。織田信長や豊臣秀吉らと会見したポルトガル人、ルイス・フロイスの紀行文に「日本の町はとても綺麗だ」と言わしめています。

また、現代のようなプラスチックなどの自然に戻りにくい化学物質もなく、衣服なども自然物でできていたため、不要なものは土に還りました。

さて、そんな中、これまで糞を肥料として使っていた生活スタイルに大転換が訪れます。
きっかけは「開港」でした。

 

 

 Chapter-3 
暮らしの大転換
西洋文化の流入
~「活かす」から「捨てる」へ~

 

さて、その後。

これまで鎖国をし続けて世界から孤立していた日本が開国を迫られます。神奈川県横須賀市の浦賀沖にペリーが来航し、安政5年(1858年)に日本とアメリカの間で日米修好通商条約が結ばれ5つの港が開かれました。

 
貿易の始まり。
異文化と西洋技術の急速な流入

日本に多くの外国人が移住してきました。街なかには全国から貿易商人が集まり、人口が急増し、公衆トイレが足りなくなっていき、街中で用を足す人が出てきました。

さらに、当時の下水管は構造的にも粗悪なもので、各所でつまり溢れ出してしまうという状況で、町の衛星環境は悪化していきます。

日本の下水道は、溝にはなっているものの上部が開口しているため(開渠[かいきょ]式と言います)、菌が空気中に分散されていました。また、人口が増えたことで、廃棄物の処理が間に合わなくなり、ゴミ溜めや沼地から菌が繁殖していきました。悪化していく衛生環境に耐えられなくなった居留地の外国人から苦情が出たことがきっかけで、近代的な機能を備えた街を清潔に保つ下水道がつくられていきます。

 

※苦情を言う外国人と渋る日本人(注意:ニュアンスや言い方には創作が入っています)

 

その頃、ヨーロッパでは・・・

19世紀と言えば、産業革命が起こり人口増加が著しくなり始めた時代。都市のインフラが追いつかずに世界各地でコレラという感染症が大流行しました。なかでもイギリスのロンドンでは2万人近い人が病死しました。この経験から、ロンドンをはじめ世界各地で下水道が作られるようになったのです。

さっそく、下水の最新技術を取り入れようと英国から技術者が招かれます。

技士のリチャード・ヘンリー・ブラントン(Brunton,Richard Henry)という人が来日しました。

横浜公園に設置されているR.H.ブラントンの胸像

1871年の横浜に上部が開いていない暗渠(あんきょ)式の陶製管の下水道が整備されました。平坦地に適したつくりで、当時イギリスで開発されたばかりの最新技術が導入されました。

 

明治中期の外国人居留地本通り/横浜開港資料館蔵(引用:横浜市ホームページ

新しくなったにも関わらず人の流入は歯止めなく続き、ブラントンの下水道は約10年を経過して要領不足になります。

そこで日本人技術者の三田善太郎が下水道管の断面の形を変えて改良・改造しました。

横浜都市発展記念館/横浜ユーラシア文化館(住所:横浜市中区日本大通12)の広場に日本大通りで発見された下水管の一部が展示されています。また、マンホールの原寸大模型は横浜都市発展記念館の中で展示されています。

みなとみらい線日本大通り駅に展示されている近代下水道の解説板

近代下水道は煉瓦造りで卵形断面の下水道網に改修されました。

この形は流量が少ないときも水深が深く保てます。また、一定の流速も保つのでゴミが堆積しにくくなっており、管のまわりに炭箱を用いた臭気対策も行われました。

横浜市中区山下町にある中華街南門通りではこの型の下水管の一部が現役で使われています。

また、その後の1884年より東京都神田に日本人がつくった初の下水道網が整備されました。

神田下水と呼ばれ、東京都指定史跡に指定されています。

 

 
 Chapter-4 
浄水先進国として「捨てる」から「再生」へ
〜新たな下水管の役割〜

 

明治の頃は、英国人に技術を学んでいた日本ですが、現代では水道先進国となって世界を牽引していると言われています。

不要になった水は都市の地下に網目状に埋設された下水道から運ばれ、水再生センターで浄化され再利用されています。

再生センターでは微生物が下水の汚れを食べることを利用し、物理的・生物的・科学的処理を組み合わせて浄化しています。きれいになった水は、 せせらぎやトイレの洗浄水として使用されたり、河川や海などに放流されて自然の水循環に戻っていきます。

また、下水道は街中に雨水が溜まらないようにする役割も担っています。地面の水を速やかに排出し、浸水を防ぎます。

 

「循環のみち」に下水道賞

各地の下水技術に国から賞が授与されているのはご存じでしょうか?

循環のみち下水道賞」といって、健全な水循環、資源・エネルギー循環を創出する優れた取り組みに対して国土交通大臣が表彰しています。

平成30年に第11回でグランプリを受賞した恵那市では災害用マンホールトイレの整備を行っています。

時代を超えながら様々に姿かたちを変えてきた下水道。

地中にあり目に見えない存在ですが、今日も足下で休みなく働き私たちの日々の生活を支えています。