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まちのような寮とは?
#02
絶妙な距離感が
学生自身を相対化

text; akihiro tani, photo; koichi torimura

 

「まちのような国際学生寮」は、そこに住む人たちのどんな関係性を生み出すのでしょうか? オンデザインが2019年夏に竣工した神奈川大学国際学生寮。大盛況だった内覧会の参加者の言葉から「まちのような」を読み解く連載の第2回は、少し広い視点で建物全体を眺め、住む人たち同士の関係性から生まれる価値を考えます。

 

「吹き抜けなのに、つながってる」
「人の気配を感じる距離感が絶妙」
「ひと言で、楽しい」
「自分を相対化させる建築の解」

 

参加者が思い思いのペースで自由な見学を楽しんだ内覧会(筆者撮影)

 

吹き抜けなのに重層的で親密

「まちのような」学生寮の大きな特徴は、前回記事で注目した「ポット」と呼ばれる小さくて多様な居場所が連続する共用部。「MARU。architecture」を共同主宰する建築家の高野洋平さんは、このポットが連続する「吹き抜け」を少し広い視野で眺め、建築の全体感を言葉にしました。

高野 これは、「吹き抜け」と呼んで良いのだろうか。全部が埋め尽くされてつながっていて、重層的で、親密な感じがする風景です。通常の吹き抜けは、空間としてはつながっていても、それが逆に場を隔てている感じがありました。この空間のように「吹き抜けなのにつながっている」のは、見たことがない状態です。

強いて言えば、ポットが特定の仲良しグループによって閉鎖的に使われるようになってしまう懸念があるので、もう少しアノニマス性が生まれるようなポットの工夫があってもよかったかもしれません。とは言え、関係性の違う人がやってきたときの逃げ道もあるし、全体的にはとてもポジティブな印象を持ちました。

高野さん(右端)や川添さん(左端)が、オンデザインの西田社長(手前)の説明を聞きながら「まちのような」寮を体験する(筆者撮影)

 

佇んでいるだけで、他者を感じる絶妙な距離感

そんな全体感を、実際のまちと対比させたのは、都市の公共空間の専門家である横浜国立大大学院都市イノベーション研究院の野原卓准教授。ポットは都市の公共空間のように、人が移動する「みち」と、活動する「ひろば」の機能を兼ね備えていることを踏まえ、空間全体が生み出す「人の距離感と関係性」に言及しました。

野原 この寮は、「みち」と「ひろば」が隣り合って連なっているところが、まさに「まちのよう」だと思いました。面白いのは、いろんな人の動きが見えてくることですね。この内覧会がまさにそうですが、みんなが自由に動いていて、互いの存在を感じられる。

だから200人の学生がまとまって生活した時も、一緒に暮らしている実感を得やすいんじゃないでしょうか。ただそこに佇んでいるだけで、ほかの人と同じことをしなくても、所属感のようなものを感じられると思うんです。人と人は、目や耳だけじゃなくて、気配で分かること、感じることがたくさんある。そんな関係が生まれる絶妙な距離感を実現することが、「まちのよう」なのかもしれません。

「みち」と「ひろば」が連なる空間が、互いを感じる絶妙な距離感を生む

 

建築と人の営みの自由さの等価な“浸透圧”

弥田俊男設計建築事務所代表の弥田俊男さんも、内覧会に集まった人たちの「営み」に楽しさを感じた様子です。

弥田 ひと言にすると、「ここは楽しい」です。国際色豊かな人たちと、一緒に住んでみたいですね。

内覧会の参加者が思い思いの動きをしているところに、その楽しさが現れています。それは、「建築が人の営みを自由にしている」からではなくて、「建築の自由さと、人の営みの自由さが、同じような“浸透圧”になっている」から実現されていると感じます。

それから、寮が透明なガラス壁を隔てて3つのエリアに分かれていて、窓越しにパラレルワールドが広がっている感覚が面白い。同じようで違う隣の世界があって、ちょっと行ってみたくなるような見え方をしていますね。

B棟の1階からA棟の方向を望む。3つの棟は2階以上ではガラス戸で隔てられ、別世界の存在を感じさせる

 

他者を見ながら、自分を相対化して成長する

A,B,C棟の3エリアがあることも手伝って、別の世界や他者の営みを感じられる「まちのような」寮。建築家で東京大学准教授の川添善行さんは、その価値を「自分を相対化できること」だとしました。

川添 「まちのような」寮だと聞いていて、実際に見て、それは日本的なまちの作り方だと感じました。オランダやパリのように、素材や高さが揃っているのではなくて、日本のたとえば渋谷のスクランブル交差点のように、人の営みの群れの総体を「まち」と言っているのだ、と。

そしてこれは、自分を相対化しながら学ぶことができる空間です。

たとえば3つに分かれたエリアが、上の階に行ってもガラス越しに見える。ダイレクトには関係していないもうひとつの営みがあって、透けて見えるんです。それ自体が「まち」っぽい。人の営みが立体化されて情景になる仕掛けになっている。そして、その情景を見ている私の存在が、そこに内包されています。

「まちのような」という言葉が、表面的な賑やかさなどを超えて、もっと深い実感を伴うものになっていると感じます。

 

この「自分を相対化する」とは、どのようなことなのでしょう?

川添 自分を相対化するというのは、幽体離脱したもうひとりの自分が、自分自身を見ている感覚です。他人と暮らすことでこそ得られる「成長の形」でもあります。

文化や宗教が違う人たちと、ポットで食事をしたり、読んでいる本を目にしたり、そういういろいろなアクティビティの中で自分を客観的に見ることになる。他人を見ることで自分を理解して、いろいろなことを発見することです。「他者性と同時に、自己性をも獲得していく」と言っても良いと思います。

この寮では、「他者であるはずの他人が同居している」という、矛盾した状態が実現しています。自分が暮らす住居には、通常では他者が入り込まないから、矛盾なのです。でもまちは、他者と同居する場であり、他者が他者のままで共存できる空間です。そして、いろいろなことをしている他者を見ている「自分」がそこに存在することが重要で、なぜなら、それによって自分を相対化することができるからです。

それが「まちのような」空間の価値であり、この学生寮は、そのための建築的な解を鮮やかに出していると思います。

同居する他者と共存した生活の時間が、自分自身を相対化させる

 

部分の丁寧な設計が、全体性に(設計者より)

ポットが点在する寮をより広い視野で眺めると、「まちのような」空間が生み出す他者との距離感や関係性、さらには個人の成長に及ぼす価値が浮かび上がってきました。それも、吹き抜け空間の全体に広がる関係性を意識しながら、一つひとつのポットを丁寧に設計していった結果なのかもしれません。オンデザインで設計を担当した西田幸平さんのコメントです。

西田 現場常駐で一番印象的だったのは、内部足場が解体されて、ポットが浮いた吹き抜け空間があらわれたときでした。広いけれど程よい密度感があり、明るいけれど少し暗がりもある。前にも後ろにも、上にも下にも、遠くの“あそこ“にも、把握しきれない無限の奥行きを感じるような、おんなじ場所がひとつもない、そんな空間体験だったように記憶しています。

なので、高野さんの「見たことがない」「吹き抜けなのにつながっている」というコメントは純粋に嬉しいです。

では、この「見たことがない」ような空間は、どのようにつくられたのか。 設計段階を振り返ってみると、吹き抜けやポットのスタディを進める中で「吹抜けの中にポットが置かれた時、そこにはどのような関係が生まれるのか」を常に考えていたように思います。吹き抜けを囲む部屋や、外部環境を取り込む開口部、そして他のポット、といった様々な要素との間に生まれる具体的な生活のシーンを想像しながら、模型の中のポットをたくさん動かしていました。

たとえば、お風呂上がりに一息つきながら談笑できるように“たたみポット“を置いたり、ポットの重なりで天井が低くなる場所には落ち着いて勉強が出来るように本棚とダイニングテーブルを置いたり。生活のシーンを想像(妄想?)しながら、開口部やポットの距離感、家具の置き方やスケールをひとつひとつ決めていきました。図面と模型とCGを行き来する中で、何かひとつを動かせば、その周りの関係性や環境も変わることを感じました。

実際にできあがった空間は、全てがずるずるとつながっているけれど、同じ状況がひとつもない“ムラのある空間“です。そのムラが、好きな場所で好きな事をするという、人の自然な振る舞いを許容してくれるようでした。

模型などをつかったポットの研究は、全体がつながっていることを感じるものでした

 

内覧会で出合った言葉は、そんな空間の価値を意味づけ、示唆を与えてくれるもの。建築家として次の設計にもつながる、大きな糧になりそうです。

野原先生から「公共空間のような人の距離感と関係性」をいただき、居住スケールの集合がパブリックな空間性を持つこともできるんだと勇気をもらいました。

また、川添さんの「他者が他者のまま共存できる空間」という言葉から、ポットが「ひとりで居られる場所」であることの意味は、「その人自身の居場所である」ことにとどまらないのだと、あらためて気付かされました。

各々の時間を過ごしている個人個人が、互いの存在をなんとなく感じ合い、自分は自分のまま、他者は他者のままで、直接のやり取りはなくとも緩やかな関係性が自然と生まれていく。「部分と全体」を考えてみると、「部分を開くことで全体につながる」というだけでなく、「部分部分が明確にあり、その緩やかなつながりで全体が紡がれる」という関係性もあるのでしょう。

実際に入居した学生の姿からも、平均化して一括りにすることができない人たちの自由な振る舞いが共存することで生まれる、特有の心地良さを感じます。 これは学生寮のような施設やパブリックな場所だけでなく、住宅のリビングのようなスケールでも考えられると思うので、今後、ひとりで使う場所を考える際の、視点のひとつとして大切にしていきたいです。

ユーザーの多様なアクションが連なる「まちのような」寮の全体イメージ(クリックで拡大)。イラスト:千代田彩華

 

次回は、「まちのような学生寮」が社会に対して発揮する価値や役割を考えます。

 

【関連記事】
まちのような寮とは?#01 多様な居場所が学生を自発的に
まちのような寮とは?#03 講堂にはない学びを得る場

 

【プロフィール】

高野洋平(たかの・ようへい)建築家/MARU。architecture共同主宰/博士(工学)/関東学院大学、芝浦工業大学非常勤講師/伊東建築塾プロジェクトメンバーmaruarchi.com

野原卓(のはら・たく)横浜国立大学大学院都市イノベーション研究院准教授 1975年生まれ。2000年東京大学大学院工学系研究科(都市工学専攻)修了、設計事務所勤務の後、東京大学助手(助教)等を経て、2010年より横浜国立大学大学院准教授、2011年より現職。共著に『まちをひらく技術』(学芸出版社)『アーバンデザイン講座』(彰国社)『アーバンデザインセンター』(理工図書)など。

弥田俊男(やだ・としお)建築家。1974年愛知県生まれ。京都大学大学院修了後、隈研吾建築都市設計事務所を経て、2011年より岡山理科大学建築学科准教授に就任し、弥田俊男設計建築事務所を設立。岡山と東京を軸に活動する。http://tosiyadarchi.com

川添善行(かわぞえ・よしゆき)/1979年神奈川県生まれ。東京大学生産技術研究所准教授。空間構想一級建築士事務所。「東京大学総合図書館別館」、「変なホテル」などの建築作品や、「空間にこめられた意思をたどる」(幻冬舎)、「このまちに生きる」(彰国社)などの著作がある。日本建築学会作品選集新人賞、グッドデザイン未来づくりデザイン賞、ロヘリオ・サルモナ・南米建築賞名誉賞、東京建築賞最優秀賞などを受賞し、日蘭建築文化協会会長などを務める。http://www.kwz.iis.u-tokyo.ac.jp/  , http://kousou.org

西田幸平(にしだ・こうへい) 建築家/1991年 奈良県生まれ。2014年 東京理科大学理工学部卒業。2016年 同大学大学院修了。2016年〜 オンデザイン

取材・文章:谷明洋、写真:鳥村鋼一