Beyond Architects
「小杉湯で働く」
塩谷歩波さんの場合
建築を学んだ人々が、それまでとは違う道に進み、異業種で活躍しています。彼ら彼女らは新たな道の途中で何を経験し、何に気づいたのでしょう。今回は、高円寺にある銭湯の番頭兼イラストレーターへとキャリアチェンジした塩谷歩波さんに話を伺い、建築が持っている可能性を再考していきます。
小杉湯番頭兼イラストレーター
塩谷歩波(27歳)
@小杉湯(高円寺)
学生時代から建築を学び、卒業後も某有名アトリエにつとめた彼女は、体調を崩した事をきっかけに銭湯愛に目覚めた。建築を学ぶ上で培った描写技術や考察眼を活かし、現在は「銭湯図解」という独自の絵により銭湯の魅力を世に伝えている。
今ではイラストレーターとして世間に認知されている彼女だが、描く絵の構成は非常に建築的であり、人物描写はその場の雰囲気や空気感を感じさせる。
彼女にとって、建築の経験が今の仕事にどのように生かされているのか。また、銭湯という新たな可能性を発見するヒントはどこにあったのか。インタビューを通して紐解いていく。
「建築」で学んだこと
−−塩谷さんが建築を志すきっかけは何だったのでしょうか。
私が小学生くらいの時、インテリアコーディネーターの学校に通う母と一緒に絵を描いたのがきっかけでした。それが非常に楽しくて今でも心に残っています。そこから建築に興味をもったんです。
学生時代も立教女学院の校舎が「擬洋風建築」でなんか良いなと思っていました。そうした環境で育った事も建築を目指そうと思ったひとつの要因かもしれませんね。
本格的に建築を学ぶようになったのは大学からです。建築を志す入口が「母と描いた絵」だったので、ずっと絵を描く事が大切だと感じていました。
当時は、いくつかのオープンキャンパスに足を運んでいましたが、その中で早稲田のオープンキャンパスだけが模型をきれいに見せるのではなく、「黒鉛」で塗りつぶされたようなドローイングの束を50枚くらいどさっと置いてあったんです。
努力のようなものがそこからすごく伝わってきて、この大学は絵を描くことに重きを置いているなと感じました。その「泥臭さ」を、かっこいいと思ってしまったんです(笑)。それでここに入ろうと決めましたね。
−−早稲田大学ではどのような事を学ばれていたのでしょうか。
設計演習という授業があって、「光の箱や誇大広告をつくれ」といったアート的なものが多くありました。おもに設計をする前の、モノづくりの楽しさを伝えるようなそんな授業でした。
それが私の建築への興味をより引き出してくれたような気がします。絵もいっぱい描きましたね。
そういう事もあって授業を持っていた入江正之先生の研究室に入りました。そこでもやはりずっと絵を描いていて、卒業論文の時には入江先生に「お前は地方にいってスケッチをいっぱい描いてこい」と言われました(笑)。
卒業論文は、町並み研究のひとつで、町の色彩をスケッチで描く事で調査するというものでした。コンテクストとしては、ゲーテの色彩論とかハイデガーなど哲学的な話をベースとしたものでした。それ自体が作品として評価はされなかったのですが、絵を描く事が私のアイデンティティなんだなと実感することができました。なので学生の時はずっと絵を描いていて、合間に設計もやってという感じでしたね(笑)。
−−建築業界のイラストは建物自体を描いたり、詳細なディテールを描くことが多い中で、塩谷さんの絵は建築だけでなく、人々の描写が精密に描かれていると思います。そうした描写は学生のころからつねに意識されていたのでしょうか。
そうですね。入江先生が言っていた思うんですけど「人のいない絵は死んでいる」と。すごい印象的で、でもその通りだと思いました。名言ですよ(笑)。
ほかにも先輩の手伝いで、模型に添景を置く時にも「ひとりぼっちの人をつくってはだめだよ」とよく言われていて、そこにいる人の気持ちになって、人の添景を置くということを考えながらやっていました。さきほどお話した卒論のテーマの「人間生活遺構研究」にもつながっている事だと思います。
人間生活遺構研究は、「路地や古い町を題材に、そこに暮らしていた人々の生活感や時間が建築をつくり出しているのではないか」という事を言葉にしようとした学問です。
そのために民家を研究していた柳田国男や、考現学の今和次郎なども勉強していましたし、看板建築や町並み観察といった少し本流とは離れた部分の研究もしていました。卒論で描いた町の絵も、きれいに図面を描くのではなく、壁のシミや人々の様子を絵に起こしています。そうする事で建物自体の色ではなくて、時間の染み付いた色合いが町のアイデンティティを生み出しているのではないかと考察しました。
早稲田で学んだそういうことが今の絵にもつながっていると思います。
「人」と「建築」は密接に関わっているから、そうした考えをもとに絵を描く事が大切だと思っています。
「銭湯図解」誕生秘話
−−塩谷さんが図解に描かれているものの背景には、そうした経験の積み重ねによって得られた表現力があったのですね。学生時代の学びを経て、建築の道をめざし、その後、「銭湯図解」を描くに至るまでには何があったのでしょうか。
大学院の修士設計の際に、銀座線の地下鉄の駅舎の設計をやったんです。地上部分の町並みのスケッチを行い、その風景を地下に引きずり落とすというコンセプトで、銀座線の上野駅から浅草駅までの設計をしました。
修士設計を発表をさせていただいた際は「フィールドワーク自体の評価がメインで設計の部分が微妙だよね」と言われて(笑)。私自身もたしかにそうだなと思う部分がありました。
私は今こうして絵を描く事が仕事になってきていますが、じつは絵にずっと強烈なコンプレックスがあったんです。絵の勉強をはじめたのが高校1年生の時で、通った予備校が美大コースでした。そこには、東京藝術大学を目指すような人たちもいて、その中で一緒にデッサンをやっていたんです。
藝大を目指す人って絵を描くのが本当に上手じゃないですか! 本当にすごくて、そんな絵を目の当たりにして「絵は好きだけど絵で仕事をするのはダメだ」と感じました。修士設計で、思考のプロセスの絵は設計には結びつかないと感じ、一方で絵を仕事にする事にもコンプレックスがある。
それだったら、設計事務所に入って、たくさん勉強すれば、「設計の中の表現として絵を使うことができる」と思い、絵を多く描いているアトリエ事務所に入りました。
アトリエに入ってからはたくさん絵を描かせてもらいました。図面やパースも手で描かせてもらえて非常に楽しかったんです。海外の物件もあったので、ここで頑張って海外にも通用するようになれば自信がつくだろうと思っていましたし、上司や社長の期待に応えようとはりきっていました。
また、「今、がんばらないと同期や他の人に置いていかれる」という不安も先行していました。結果、あれもやる、これもやるみたいに全部を抱え込んでしまい、知らず知らずの内に自分をかなり追い込んでいました。
そうして気づいたら…..病気になってしまったんです。ひどい貧血で、疲れもとれない状況でした。話していても呂律がまわらない事もあって、これはダメだってなったんです。病院に行ってみたら「一ヶ月どころの休みじゃない」って言われて、結局3ヶ月休職する事になりました。
休職中は精神状態も良くありませんでした。休職手当をもらって実家で過ごしていたのですが、実家にいて無職でお金をもらってる状態がつらく、メールを開くと自分がやるはずだったプロジェクトを同期や先輩が代わりに進めていて、めちゃめちゃふさぎ込んでいました。
家に居てもとにかく鬱になってしまう状況でした。そんな時に罪悪感がなく行けたのが、唯一銭湯だったんです。
もともと銭湯は、休職していた他の友達からもすすめられていたのと、お医者さんからも「体を温めるのにそういう場所に行く事は良いよ」って言われていたんです。ワンコインで気軽に行けて、おばちゃんたちが多く、同世代がいなかったので、休職時に唯一安らげるのが銭湯でした。それに、銭湯に行けば行くほど体調も良くなっていったんですよ。
だんだん実家から離れた銭湯にも行けるようになって、まさしく銭湯パワーです。
銭湯に行くことで、自分が“普通”に戻っているのを感じました。その頃には、もう銭湯の魅力にはまっていて、何かカタチにしたいなっていう気持ちが湧いてきていました。
そんな時、ほかの友達に銭湯の魅力を伝えようと描いたのが「銭湯図解」でした。
長くなりましたが、これがきっかけだったんです(笑)。
−−はじまりは、ひとりの友達に対して送った絵だったんですね。あと最初から銭湯が好きだったわけではないというところにも驚きました。
描く事が自分の中で日常化していたからこそ、図解を描こうと思ったんです。
コンプレックスはあったのですが、友達にあててならtwitter上であげても良いかなと思い発信したら、すごいリツイートされてしまって、こちらが戸惑いました(笑)。
ネットの力はすごいなと感じましたし、自分の絵を知らない人たちが評価してくれたことが、コンプレックスをやわらげてくれました。描いていいんだって思って、どんどん描きました。
同時に元気にもなっていくのも感じて、当時はリハビリだと思って描き続けていきましたね。
−−アトリエ事務所にいた時に描いていた絵とは何か違いがあると感じていますか。
アトリエにいた時は建物のために絵を描いていたので、描く楽しさはあったのですが、その絵がモノになることはなっかたんですよ。社会に出たことでそれが顕著にわかりました。
今思えばそうした事も自分にとってはストレスに感じていたのかもしれません。
−−塩谷さんの絵の原図を見せていただいて、途中段階までは、我々がふだん建築の仕事で用いる手法と同じように感じました。しかし、図解になっていく過程で、建築的手法だけでは描けない魅力が付加されていると感じます。それは、塩谷さんの経験や培ってきた技術があらわれたものなのですね。
そうですね。やはり、設計事務所での経験がなければ描けないし、早稲田での日々がなければ描けないです。
−−お話をきいていて建築に対する想いが、絵の背景に強くある事を感じました。ご自身、建築から転職した時、どのような事を感じ、どんな想いを持っていましたか。
休職したての時は、建築から離れる事にホッとしていました(笑)。非常に疲れていたので。でも、それは一瞬だけでした。建築から離れてしばらくして、建築以外に何をすればいいかわからなくなってしまいました。
建築以外の趣味がなくて、とても苦しかったです。
今は思えば、アトリエ事務所時代は、忙しくて建築以外の趣味をつくれなかったことが、逃げ場所を失くしていたのだと思います。
でも結果として、銭湯という新たに自分を支えてくれるモノを見つけられました。
その後は、アトリエ事務所に一度復職し、4ヶ月ぐらいあけて、最初は週に2,3日で5時間程度だったんですが、それでもぜんぜん体が動かなくて、事務所のリズムに自分の体がついていけないようになっていました。
それで「この先どうしよう」となっていた時に、小杉湯の三代目から「うちで働かないか」って言われたんですよ。
私自身、早稲田大学院を卒業して、名前のあるアトリエ事務所に行き、その後、銭湯で働くことはドロップアウトじゃないか、という悩みが自分の中にありました。
どうしても自分だけでは決めきれないので、友達10人にあって相談して、1人でも反対したらあきらめようと思いました。そうしたらどうでしょう。全員に「転職しろ」って言われてしまったんです(笑)。
友達も私が大学時代にずっと絵を描いていた事を知っていたので、「塩谷は絵の方向でいけば絶対成功する」「絵を大事にしているなら行くべきだ」と言ってくれたんです。
それでやっと絵を描くことに踏ん切りがつきました。
これまでずっと「建築」の中での絵の落としどころを探していました。それが「銭湯図解」というカタチで落としどころを見つけたんです。
今はこの絵が、私と建築とのつながりだと思っています。ドラマチックですね(笑)。
(聞き手:塩脇 祥、伊藤彩良/オンデザイン)
profile |
塩谷歩波 honami enya1990年生まれ。高円寺の銭湯・小杉湯の番頭兼イラストレーター。銭湯再興プロジェクト主宰。早稲田大学大学院(建築専攻)を修了後、有名設計事務所に勤めるも、体調を崩す。休職中に通い始めた銭湯に救われ、銭湯のイラスト「銭湯図解」をSNS上で発表。これが評判を呼び、小杉湯に声をかけられ番頭として働くようになる。現在、Web媒体の「ねとらぼ」で「えんやの銭湯イラストめぐり」、雑誌『旅の手帖』で「百年銭湯」を連載中。NHKドキュメンタリー「人生デザイン U-29」など数多くのメディアに取り上げられている。好きな水風呂の温度は16度。(『銭湯図解Official Website』より) |
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