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トイレは、文化だ。
#03
どうやって生まれた?
トイレマーク

text & illustration : emiko murakami

 

トイレにまつわるさまざまな事象を多角的視点で掘り下げる、自称トイレハンターによる連載シリーズ。今回は誰もが見てすぐに分かるトイレの“マーク”について考察してみます。

こちら、誰もが知っているトイレにあるマーク。
デザインがシンプルで、国や文化を超えて伝わる優れた案内表示です。
今でこそ駅や商業施設・公共施設など街の至るところで見かけますが、
半世紀前にはこのような表示方法はほとんど見あたりませんでした。

つまりマークではなく、文字で案内されていたのです。

 ・お手洗い
 ・便所
 ・厠(かわや)
 ・はばかり
 ・閑所(かんじょ)

などなど。
では、マークはいつ頃、どこで生まれたのでしょうか。

 

おもてなしの心が生んだトイレマーク
※以下、今回は物語形式で紹介します。(セリフには創作が入っています)

時は、1964年。
「第18回東京オリンピック」が開催された年。
アジアで初めてオリンピックが開かれるということで、都内のみならず日本各地において数々の建設・整備が行われました。道路を新設したり会場の手配をしたりと様々な準備が必要でした。
開催まであと半年をきった頃。
とあるひとりの男性に、ある思いが降ってきました。
「世界中から人が集まる。文化や風習の異なる人たちをどのようにもてなそうか。外国語を話せる人がほとんどいないこの国で、どうやって言葉の壁を超えたらいいだろうか」

男性の名前は、勝見勝(かつみ まさる)。
日本の美術評論家で、フランス文学者でもある彼は、
東京オリンピックのデザイン専門委員会の委員長も務めていました。
彼は、さっそく11人の若手デザイナーを集めて言います。
「文字を使わないで案内できるマークをつくろう。言葉でなくシンボルで伝えるんだ。
漢字も英語も分からない人でも、理解できるものを」
その日から勝見氏と若者達による定期的な集まり
「伝える絵をつくろうの会(勝手に命名)」が始まります。
11人の若手デザイナーにはそれぞれ仕事があったので、
仕事が終わった後の午後7時ごろから集まって作業を行いました。
与えられた制作期間は3ヶ月。

真夏の熱帯夜。木々からは夜蝉の鳴き声が聞こえてきます。

この日、旧赤坂離宮の地下会議室で、王宮のような豪華なイスに座り円卓を囲むと、大量のわら半紙と鉛筆約30本が置かれていました。
「さあ今日は電話のマークを考えてくれ」
勝見氏が号令をかけます。11人がそれぞれデッサンをし、ああでもない、こうでもないと議論をします。
そして、この日は、黒電話のマークが採用されました。

こうした流れで、トイレのマークも生み出されました。
メンバーの中で最年少だった原田維夫氏が言うには「トイレは一番苦労した」そうです。
今でこそ街中で当たり前のように見かけるトイレマークですが、当時は誰も考えたことがなかったのですから。

当時は様式便所もあまり普及されておらず、温水洗浄なんてもってのほか。
国によってトイレの形式も様々です。
まさか和式の便器を描いたって、誰も分かってくれそうにありません。

11人は悩みました。

あるデザイナーはトイプードルを描きました。
男子トイレには足を上げて用を足している図柄。
女子トイレは座っている図にしました。
「とぐろを巻いたうんち」の絵も出てきたそうな……。

様々な試行錯誤の末、
ようやく出てきたのが、今日よく見かける冒頭のズボンをはいた人、スカートをはいた人のシルエットです。
メンバーのひとりだった田中一光氏が考案したものでした。
トイレ自体を描かなくても、トイレと書かなくても、広く多くの人に認識される力を秘めたマークです。

まさに、絵ことば。トイレのピクトグラムが生まれた瞬間でした。