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建築と模型とメディア 
#03
“建築”から考える
メディアの可能性

text:satoshi miyashita photo:akemi kurosaka illustration:awako hori

 

社会学者、松井広志さんと建築家、西田 司さんによる対談も今回が最終回。建築と模型とメディアの白熱トークは、いよいよ佳境へ!

 

 

@オンデザイン

 

松井 すこし模型の話から外れるかもしれませんが、僕からも西田さんにお聞きしたいことがあります。メディア論的な模型の役割についてはさきほど申し上げた通りなのですが、一方で現代社会について言うと、日本も海外も、コミュニティーの中でメッセージを伝えるソーシャルメディアの時代です。ネット社会に関わる研究でも、「友だち地獄」とか「スクールカースト」的な問題ってソーシャルメディアの濃密過ぎるネットワークが要因になっている、と言われています。『BEYOND ARCHITECTURE』の過去の記事を読ませていただいて、建築においても僕は結構同じだなと思ったのが、ヨコハマアパートメントの事例です。

西田 ああ、なるほど。

松井 あの記事の中で興味深かったのが、最近の若い人たちが「生活のすべてをシェアしてもいいんじゃないか」っていうふうに考えていることでした。でも、西田さんとしては逆に、それぞれの部屋にキッチンやトイレが付いていて、「独立」という言葉で表現されていたと思うのですが、そこを重要視されていると。
 僕も学生と接しているのですごく実感がありますが、最近はつながり重視、体験型消費にシフトしているとよく言われます。それはそれで分かるのですが、西田さんが「バランスが大事だ」とおっしゃられていたのがとても印象的だったんです。メディア論的な視点だと、全部がつながればいいってもんじゃなくて、相反する場合もあると思うんですよね。べつに無縁になるわけではなく、いったん中断して別の世界を知るとか。例えば読書や映画鑑賞がその典型です。ひとりでじっくり読書や映画鑑賞をする経験が、若い世代になるほどだんだん少なくなっていっている気がします。
 だから独立とシェアの対比みたいなところで、ヨコハマアパートの記事は興味深かったです。プラモデルでも、ビデオゲームでも、読書でもいいんですけど、自分が何かのメディアとつながる際はひとりだけの空間にいることって、すごく大事じゃないかなと思います。

西田 よく建築がもっている物質性って非常にメディア的だというふうに言われますが、象徴的なのが宗教建築です。

松井 ああ、そうですよね。

西田 神様は実際には目に見えないけど、教会に行って、黙とうをささげていると、いるような気持ちになってきます。空間の中での光の在り方とか荘厳な音の在り方とかが影響して、召喚されているような気持ちになるわけです。そういう意味では集団性ももちろんありますが、宗教建築は「自分とその世界をつなぐ装置」です。僕は建築の本質って、じつはそこがスタートだと思っていて、つまり自分自身と対話する場所であり、それが建築のひとつの価値でもあると。

松井 そこは重要なポイントですね。

西田 ええ。例えばショッピングセンターをつくって、そこで店員さんと話したり、コミュニティースペースでは、仲のいい友人とワークショップをしたり、その背景にはやはり「自分と世界をつなぐ装置」というベースがあるわけです。また、ふだん建築と呼んでいるモノについて、どこまで私たち設計サイドが意識するのかという問題もあります。設計サイドの意識が建物だけだったら、その内部をどうするかという話になってしまうけど、生活の中で自宅以外にもいろいろな場所があって、それらすべてを体験することで、その人の人生が構成されていると考えると、そこにはコミュニティースペースがあってもいいし、もちろんひとりでいるスペースがあってもいい。どっちかだけに偏るのは良くないと思うんです。

松井 すごく分かります。

西田 現在、日本におけるひとり暮らしの割合って人口の約30パーセントです。家でひとり、職場も比較的ひとりで仕事ができちゃう環境だと、人と人のつながりってどんどん希薄になっていくように感じます。だから最近は映画を観るにしても、屋外シネマ上映会を開いてフェスみたいな感覚で共有体験できるようなイベントが増えています。ある種、蔦屋書店とかも本好きが集まって、なんとなく他人同士が一緒に本を読んでいるような状況ですよね。
 これも群れるという原初的欲求とのバランスで都市の中では全部にアジャストさせるのは難しいわけで、だからこそ建築的な役割って大きいと感じています。

松井 なるほど。人間は集団生活する動物ではあるけど、つねに人間関係を気にしているのも疲れますよね。僕はクリエイティブなことをするにはひとりの時間って絶対に必要だと思うんです。西田さんは、そこをすごく考えられているのかなと思いました。
 やはり人間って機械じゃないから集中したいときのモードと、人と接しているときのモードって簡単には切り替えられません。そこで僕はいつも空間の助けを借りて、原稿書くときは人との関係を断ってしまうわけです。
 中世のアジールじゃないですけど、自分をそういう状況に持っていく。無縁所みたいな感じで。よく縁って言いますが、昔風の言い方でいうと「因縁」みたいな、悪い意味もありますよね。きっとネット以前の社会のほうが、逃げ場として無縁所とかアジール的な空間がたくさんあったんじゃないかと思います。
 先ほどの宗教建築の話もそうですし、フェスもそうですけど、みんなでいるっていうのも、ある種の広場も含めてひとつの空間ですよね。つまり空間や物質ってことを考えると、都市空間にある建築物の存在意義も分かるような気がします。