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建築と模型とメディア 
#02
ガンプラと建築模型の
意外な類似性

text:satoshi miyashita photo:akemi kurosaka illustration:awako hori

 

前回に引き続き、今回のケンチクウンチクも社会学者、松井広志さんと建築家、西田 司さんによる対談をお届けします。お互い、なぜ“模型”に注目するようになったのか、その理由が明らかに!

 

 

@オンデザイン

 

 

松井 オンデザインが、模型にこだわりはじめたのって、いつ頃のことなんですか。

西田 きっかけになったのは以前、中庭を壁で囲む家を設計したことがあったんですが、その家のお施主さんが、閉所恐怖症で小さな模型を見て、「怖くて住めない」って言われてしまったことがあって。「いや、実際の中庭はめっちゃ広いですよ」と説明しても、お施主さんにとっては思い込みのほうが強くて。一般の人には、スケールのイメージって難しいんだなあとそのときに痛感したんです。

松井 なるほど。

西田 いくら言葉で「この長さは100mですよ」と言っても、その人が10 mに見えたら10 mだし、1 mに見えたら1 mなんです。それ以来、模型は大きめにつくって、その中に家具も入れるようにしています。そうすると実寸では理解できなくても、模型を見て、家のソファがこのサイズだったら、その延長線上に窓があって、庭があるんだという「自分ごと」というか、自分の家のスケールに近づけられるんですね。
 白模型をやめたのも実際の空間に白い場所ってほぼなくて、例えば壁はベージュで、置いてある家具は黒、住人の服は赤というように、当然色とりどりになるのが現実です。もちろんすべて白一色の空間に住みたいという要望があれば、白い壁、白い家具、白い服装でもいいんですけど、それはさすがに病的過ぎる気がします。そうすると色とりどりの多様な状況を想像しながら打ち合わせしたほうが、着地ポイントもみんなが同じ目線になれるんじゃないかと思ったんですね。

松井 なるほど。

西田 人ってやっぱり目で見てから素材や色のことを考えるんです。オンデザインの模型は全部打ち合わせ用なので、変更や修正を厭わないと最初にお施主さんには伝えますが、それでもよく模型を修正する際に、「こんなにきれいにつくっていただいたのに……」って恐縮されます。でも、僕たちからすれば建物はお施主さんのものです。修正した箇所は前回と比べてこう変わりましたと、お見せしながらアップデートしていくようにしていますし、お施主さんの意見が具体的になればなるほど家のキャラクターもその人に近づいていく感覚があります。

松井 それって、つまり模型としてのリアリティーをいかに出すのか、みたいなことにもつながりそうですね。僕の立場から連想すると「ジオラマ」の世界にも共通するような気がします。ジオラマの人気が盛んになってくるのは70年代以降ですが、それまで単体だった再現の度合いが、ある段階から極められてくると向かう先は周辺の情景になってくるんです。当初はミリタリー模型が中心だったのですが、80年代のガンプラ(ガンダムのプラモデルの略)・ブームからはその発想がキャラクターモデルにも導入されて、アニメーションなどのワンシーンを切り取るものになりました。

西田 なるほど。戦車だけだったのが、今度は戦場になると。

松井 そうです。ガンダム単体で立っているだけじゃなく、ザクなどの他のモビルスーツやスペースコロニーといった背景を加えて、過去に放映したアニメのシーンを題材に、その人の記憶を再現するみたいな方向性になるんです。
 そこでちょっと興味深いのは以前、リサーチのためガンプラ愛好家の方に話を伺ったとき、「小さい頃に見たガンダムのアニメを見返したらイメージと違った」という意見が多くあったんです。これって記憶が美化されているっていうことだと思うんですね。
 だとすると、一見は過去のことだけど、さきほどの話のように「理想を実現するための模型」という観点からすれば、じつは建築模型をつくる思考プロセスと似てるところもあるんじゃないかと思います。ある種、海洋堂のリアルなフィギュアも同じですよね。2000年代前半にチョコエッグがブームだった頃、世界名作劇場を再現したりするプチジオラマが流行りました。つまり、理想形のイメージを豊かにしていくことは、ジオラマの世界と結構、似ているなあと。

西田 なるほど、面白いですね。

松井 素材や色、あとひとつは周りの風景自体を切り取ることで、建築模型だったら未来の生活、アニメ・マンガやゲームだったら過去に観たシーンをより豊かにイメージできるのか。

西田 確かに、先ほど人と人をつなぐメディアであると同時に、人と世界をつなぐメディアって松井先生はおっしゃいましたが、例えば人と人っていうのが、僕と施主の関係だとしたら、人と世界って施主と理想とも置き換えられそうですよね。

松井 そうですね。単にぼんやりとした理想じゃなくて、リアルな理想。こういうふうになるんじゃないかみたいな。建築模型によって、その距離感がさらに縮まっていくのだと思います。

 

なぜ「模型」を研究対象にしたのか?

西田 ちょっと話が、原初的なことになっちゃいますけど、いわゆる社会学の中でも、最近、物質性についてあまり語られてないと言われていますよね。

松井 はい、そうです(笑)。

西田 その中で松井先生が、あえて模型というモノに着目した理由は何だったんですか。

松井 そうですね、できるだけ端的に言わせてもらうと、社会学では、「社会秩序」は、「規範」が内面化されることによって成り立っていると考えます。そう考えると、こうした規範(の内面化)に関わる局面、例えば家族や教育、労働が、社会学の重要な対象として浮かび上がってきます。ですから、「模型とかモノとか言っているけど、その前に人(が直面する社会問題)を扱うべきじゃないか」といったことを言われる可能性もあります。ある意味では、そうした指摘も当然だと思います。
 じつは僕自身は、いきなり模型を対象に研究を始めたのではないんです。例えば、科学社会学という領域では、科学におけるビーカーや実験器具や土壌の採取器など、科学とモノの関係を分析していく一派もあります。こうした視点は、科学兵器と戦争の関係を考える研究も出てきたという流れです。社会学のなかでも、社会における「科学」とは何かを考える研究では、すでに先駆的にモノの議論がされてきたんですね。そうした潮流の中で僕としては、モノを重視する発想が、メディア論や文化社会学にも応用できると考えたわけです。

西田 なるほど。

松井 例えばデジタル音楽でも、その楽曲は電子ファイルのデータで構成されているようでも、よく考えるとその基底にはハードディスクという物質があって、その媒介によってはじめて音楽が成立します。つまり、デジタル化した世の中ですが、モノの媒介というのはどの領域にもあると思うんです。人と人との関係ってモノによって変わってくるし、すべてがモノによってつながっているわけです。
 これは本と博士論文でも書いたことですが、前に西田先生もおっしゃってくださいましたけど、「模型」という字面には、概念を模しているっていう意味があるので、わりと素直に「媒介性」が関係していることが伝わるわけです。つまり「模してる」と言っている時点で、人と人とをつなぎ、世界と人をつないでいることが含意されています。また「型」は、いわゆる物体のカタチという意味なので、「物質性」の意味がすでに含まれているんですね。そのため反論の余地があまりなく、「モノが大事なんだよ」っていうことを言えるわけです。
 これが他の対象になると、どうしても反論が出やすくなってしまいます。たとえば「音楽はネット配信時代には(CDなどの物質がなくても)コンテンツ共有ができるじゃないか」といった論法を聞くことがあります。実際には先に言った通り、文化現象にも物質性の層は不可欠なのですが、模型の場合は物質性と媒介性が明示的に存在するので、「モノがメディアになる」という議論が展開しやすいのかなと思います。

西田 なるほど、すごく理解できます。音楽だと物質性がなくてもいいんじゃないかという反論も面白いですね。>>つづく

 

ケンチクウンチク「建築と模型とメディア#01」はこちらよりご覧いただけます。
また、ケンチクウンチク「建築と模型とメディア #03」は、こちらより、お楽しみいただけます!

 

profile
松井広志 hiroshi matsui

1983年大阪府生まれ。大阪市立大学大学院文学研究科後期博士課程単位取得退学、博士(文学)、愛知淑徳大学講師。専攻はメディア論、文化社会学。編著に『いろいろあるコミュニケーションの社会学』(北樹出版、近刊)、共著に『動員のメディアミックス』(思文閣出版)、『広告の夜明け』(思文閣出版)、『ポピュラー文化ミュージアム』(ミネルヴァ書房)。論文に「メディアの物質性と媒介性」(「マス・コミュニケーション研究」第87号)、「ポピュラーカルチャーにおけるモノ」(「社会学評論」第63巻第4号)など。